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センチメンタル
2008/10/26
(この記事は2008年のものです)
何日か前から母は、「あの歌が聴きたいの」と言っていた。
何でもCTを撮るときに検査室の中で流れていたとかで、母はおぼろげに記憶している歌詞の断片を私に聞かせる。
「会いたいとか恋しいとか、あなた言ったじゃないのとか。恋人が死んじゃった歌よ」
なんだかわかるようなわからないような、私は歌謡曲、それも子育て期間中の歌やドラマにはとんと疎いので、母が何の曲のことを指しているのかどうにも判断できなかった。
先日「思い出した。知可子って人よ」と言う。そしてその翌日「沢田知可子よ」と断言する。
調べてみれば1990年に大ヒットした「会いたい」という曲だとかで、YouTubeで聴いてみたら、さすがに私もサビの部分は知っていた。
今日は仕事をどうにかいつもよりも早めに終わらせて、小手指に向かった。駅前からのバスの14時台、日祭日は1時間に2本しかない。行ったばっかりだったので仕方なく、2台だけ止まっていたタクシーに乗る。
病室の母に、母が望んでいる曲がわかったと告げると、「会い~たい~」と小さな声で唄いながら、ツツツッと泪を流す。
「窓から三角屋根が見えるでしょ」
その三角屋根は、母が子供の頃いつも眺めていた鐘つき台にそっくりなのだと言って、泣きそうになる。
「鐘が鳴れば素敵なのにね」と私が言うと、「…鳴るのよ! 電子音だけどね」と、震えるように話す。
私が一昨日持って行ったCDラジカセでイル・ディーヴォを流すと、「いい声…! 目の前で歌われたら腰がすくんじゃうわ」と真顔で言う。そして
「ああ…! 一度生で聴いてみたかった…!」と泣きそうに顔を歪めて嘆く。次の瞬間また真顔になって、「チケットは一瞬で完売だって」と、芸能通の一面を垣間見せる。
母は色々なものを欲しがる。スマップのキムタクがソロで唄っているなんとかっていう曲が欲しいとか、お花が欲しい、人形が欲しい、孫たちの小さい頃の写真が欲しい…。
私は今日、母の部屋にあったぬいぐるみを2個持参し、5人の孫たちが小さかった頃の写真がたくさんの楕円形の枠の中から覗いている、大きな写真立ても持参した。イヤホンが欲しいというので西友で購入し、耳にはめてあげると「いいね…」と言う。
しばらくすると「自分の声が大きく聞こえちゃって…!!」と必死の形相になる。「自分の声が響いちゃって話ができないよ」と言う。
そうね、お母さん。イヤホンで音楽を聴くのは、一人のときがいいわよね。聴きたくなったら、ナースコールをするか、傍にナースが来たときについでに頼むのよ。
病棟の廊下は広い。母よりもずっとずっと年配の女性が、長い廊下で一生懸命歩行の練習をしている。何と羨ましいことだろう。