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感情

2008/09/23
(この記事は2008年のものです)


また母の話題?

そうよ。だってこれしかないもの。そうはいっても私だって、何も毎日毎時毎分毎秒、母のことを考えているわけではないですからね。違うことだってしてるもの。

本来の仕事だって、息子の学校のクラス委員のつまんない仕事だって、それから時々は友達に会ったり、電話で長話したり、蜘蛛と闘ったり、してるからね。

とはいえね…。

今日も夕方、今日はちょっと遅くなって18時前に、母の病室に到着した。母は昨日よりは表情が穏やかで、それほど多くの幻覚も語らない。だけど今、母の中では長女が大病を患って入院騒ぎになっていて、私の顔を見るなり「T子はどうしたの? 大丈夫なの?」と言う。

緊急手術でもするようなことを言うので、「お姉ちゃんは大丈夫だよ。なんともないよ」と言うけれど、母は私が秘密を隠していると思い込む。母の妄想の中で姉はいつのまにか、卵巣も子宮も、全摘することになっているらしい。大変だな、こりゃ。

家族がいるとナースは「じゃ、お薬お願いしますね」と言って、薬を置いていく。いつも飲んでいた漢方の54番(抑肝散)を、「540番」だと母は言い張る。顆粒の量が多くって、母はこれを懸命に飲んでいる。2回に分けていた時もあったが、1回で飲みたいと主張する時もあった。

今日は久しぶりに母に薬を飲ませたが、一度でいくと言った54番を、母はどうしても飲み込むことができずに、結局全部吐き出した。「喉の中に、細くて固い紐みたいなのが入ってるのよ」と言う。嚥下障害もかなり進行しているのだろう。「一度じゃ無理だった」と母も軽く後悔する。それでもその後のカプセルや小さな錠剤は、ちゃんと飲むことができたし、腸の粉薬も2回に分けてしっかり飲んだ。

口をゆすいで、歯を磨いて、「歯磨き粉をつけて」と言うので、歯ブラシに少量つける。「歯磨き粉、変えたわね?」と母が訊く。味覚もだいぶ狂ってきているのだ。

「今日は遅くなっちゃったけど、明日はもっと早い時間に来るね」と言うと、「うれしい」と、くっきりと母は言う。母の「うれしい」は傍で聞くと少しも感情がこもっていないような、そんな硬い言い方だ。石に刻まれたような、硬くて重い「うれしい」は、私の心にずっしりと、やっぱり重たくのしかかってくる。

帰り際は優しく。そしてサッパリと明るく。私はそう心がけている。母のおでこと髪に触り、「また明日来るね」と声をかけると、母は無表情のまま「ありがとう」と応える。

いろいろなことが混沌として、ワケがわからなくなっても、人間は最期まで、気持ちを感じ取るアンテナは折れないんだ。嬉しい。哀しい。不安だ。腹立たしい。
そして自分は愛されているか。大切にされているか。誰かに疎まれてはいないか。
そういった感受性は、もしかしたらより鋭敏になっていくのかもしれない。

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