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母と時計

2011/7/19

昨日の母はまたまた陰鬱モードで、いろんな人の悪口を、私はたっぷりと聞かされる。

「私が後でちゃんと見て回るから大丈夫よ」などと約束しておきながら、結局タオルケットと布団をチェンジしに来ないスタッフについて、「口ばっかりなのよ!」と、母はほとんど聞き取れないほどの小さな声で吐き捨てる。

乾燥する唇に塗る「ワセリン」と、関節痛を和らげるための「ゼノール(という名の鎮痛塗布剤)」がごっちゃになり、昨日は「リノール」と言い続ける。なかなか会話が噛み合わない。

最近の母は普通のお茶ではむせるので、「とろみ茶」と呼ばれる、片栗粉かなんかでとろみをつけたお茶を提供されている。それをスプーンでゆっくりと、ひと匙ずつ口に入れる。食事の介助をするスタッフの、スプーンを口に入れる速度が速すぎるのだと、母は不満の塊になっている。

思い通りにならないことばかりで、母はつまらない。今さら母を、ちやほやしてくれる人は誰もいない。

ベッドの両脇のチェストと引き出しにそれぞれ、母はふたつの置時計を置いている。アナログ式の、普通の目覚まし時計だ。どちらを向いてもそれが見えるようでなければ気が済まない。

ただ寝ているだけの人に、なぜ時計が二つも必要なのか、スタッフには理解できない。曲がらない首でも見える角度に置きたいと、スライド式の棚板を引き出した上に時計をのせたがるので、介護する側には邪魔でたまらない。何気なく時計の位置を変えたまま介護し、元の位置に戻さないまま行ってしまうスタッフを、母はいつも心の中で憎んでいる。

「あそこに時計をつければいいのよ」と、ベッドに仰向けになったままの母が曲がらない指を曲げて天井を指し示す。天井にあるエアコンのあたりから、時計をぶら下げようというのか。

天井にあればいつでも時計が見える、痛む首を必死に曲げようとしないでも、いつでも時計が見える、母はそう思うらしい。

時計を見て、時刻を知り、時間を読み、母は何をしたいのだろうか。起きて食べて寝て排泄して。生きるための最低限のスケジュールを、母はまだ自分自身でしっかりと管理しているのだと、思いたいに違いない。

今日は何があって何がなくて、誰が来るのか来ないのか。「私は何でも知っている。私は何でも解ってる」母は最後の最後まで、そう信じていたいのだ。


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