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最期を考える

2011/6/21

先日主治医は、呑み込みの悪くなってきた母に、胃ろうの説明をしたのだという。胃ろうという手段があるけれど、この先どうするか、家族とよく話し合っておくように、と。

母は医師に、胃ろうについての質問をいくつかしたようだった。私も姉達も、母に胃ろうをつくることはずっと反対だったし、入院時から何度か、意向を伝えてきたはずだった。

「動物として、食べられなくなったらお終い。胃ろうは延命よ」と言い放つ医師だったので、私達の意思も変わることはなかった。

だからどうして医師が今さら母に、胃ろうについて問うたのか、私達は動揺してしまった。母が甘い希望を抱いてしまったように感じられたからだ。

胃ろうにすれば、呑み込む時にむせることなく、楽にずっと長生きできる、母はそんな幻想を抱いたようだった。

「お母さんはどうしたいの?」と訊くと、「迷っているの」と答える。

胃ろうにすれば車椅子で食堂に出向くこともなくなり、ただ口から物を食べる楽しみを失うというだけで、関節の痛みが消えるわけではない。ますます寝たきりになって、そのうち声も出なくなって口を開けて、ただベッドに横たわっているだけになる。それでも、栄養を摂っているからすぐに死ぬことはない。死にたくなっても死ねないのだ。

身動きもできないまま、時に顔を歪めながら、口を開けて寝ているだけの人をたくさん見てきた。

「ただ生きていてくれるだけで嬉しい」と、本当に心から思って胃ろうを選択した家族がはたしてどれくらいいるだろうか。
「ほんとうに一日でも長く、ただ生きていたい」と、心底願っている患者が
はたしてどれくらい存在するのだろうか。
末期の認知症患者に、自分の最期の在り方を選択するだけの力は、ほとんどないと思う。


今日、主治医と僅かな時間、話すことができた。改めて私(達娘)の意思を、医師に伝えた。医師は、「それはとても共感できる」として、母には「私から上手に説明をしておく」と言ってくれた。

本当に食べられなくなる前に、意識のしっかりしている母自身に、今の段階で一度、きちんと意思確認をしたほうがいいと判断して話したのだと、医師は説明した。

食べられなくなったからといって、すぐにそのまま餓死させるようにではなく、できるだけ母が苦しまないように、楽に、自然と逝くことを私は望んでいる。

医師は、「大丈夫!」と応えてくれた。


一日中寝てばかりで、ほとんどが誰かへの恨みや不満ばかり(少なくとも私達にはそう聞こえる)で、足が痛い首が痛い背中が痛い腕が痛い、鎮痛剤を飲んでいても、夜中には関節が痛くて眠れないと言う母が、どうして生きることに執着できるのか、私と姉には正直不思議でならない。

誰よりも我慢することが嫌いで、痛いことが嫌いで、誰よりも見栄っ張りで
短気で諦めの早い母だったはずなのに。

「でもお母さん、どっちみちまだ先の話よ。お母さんは心配しなくて大丈夫なのよ」と、言っておく。

だって今日だって、どうのこうのいったって、ジャンボシュークリームをほぼ1個、ペロリとたいらげる母だ。その後に、病院からのおやつのババロア2切れだって完食。

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