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生きる

2008/07/28
(この記事は2008年のものです)

病室の窓から、夕焼けに染まった空を見る。

好き嫌いしながらも、なんとかご飯を食べて、便秘しながら、薬を飲みながら、ポータブルトイレで用を足す。

今日の母は、足がすくんで歩けない。母の歩行は普段、ベッドからポータブルトイレへ移動する1~2歩か、食事のときに椅子に移動するほんの2~3歩だけだ。

廊下で過酸化水素を持った人が現れて、煙が出ていて危険だからと、母は洗面台にある洗面器に水を入れて、戸口まで運んだという。「洗面器が重くって持ってられなくって、ドアの外に置いておいたら、看護婦さんに『これ、何?』って訊かれちゃった」と母は言う。もし転んでいたらと思うと、怖くなる。

夜中に便が出ないと大騒ぎをした女性がいて、夫も立ち会ってナース誘導のもと、浴室で大便出産があったのだそうだ。女性のいきむ声と唸り声、めでたく大便出産後の臭気まで母はリアルに感じたようだった。だからゆうべはいろいろと大変で、「ほとんど眠れなかったわ」と母は言う。

部屋に猫がいるとナースに訴え、否定されたという。母は食事中にも何度も部屋の隅に目をやり、居座り続ける猫を見張っている。「早く帰って、おうちでご飯をお食べ」などと声をかけている。猫の通り道をつくっておかなきゃと案じている。もし今晩、ベッドに猫がのぼってきたらどうしようと心配している。

母の身体を熱いタオルで拭く。母はお風呂を嫌がる。病院のお風呂は寒くって熱が出ると思いこんでいるからだ。半年前とはまるで別人のように、母の身体はやせ細っている。身体がわりあいと滑らかに動く時と、本当に動かない時との差が激しい。

今日の母は動けない。起き上がったり、身体の向きを変えたり、足をベッドの上に載せたりすることも、介助が必要になる。

母は一日中、尿意・便意と闘っている。そのたびに、大変な思いをしてベッドから起き上がり、ポータブルトイレに移動し、お尻を定位置に収めるだけでも時間がかかる。そんなことを、朝から晩まで繰り返している。実はそんなことしか、やることがない。排泄をするためだけに生きているようで、哀しくなる。

それでも母の幻覚や妄想はものすごく面白いので、「お母さんの話って、面白いね」と言ってみると、「昔からそう言われたの。『ふみこちゃん、面白い話して!』って、みんなによく言われたの」と、嬉しそうに微笑む。

それだけでもう、充分かなとも思う。

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