花畑と夢
2010/5/28
今日は心地良い天気。金曜は母の入浴日だが、それでももしかしてと思って、ローヒールの歩きやすい靴を履いて病院へ向かった。
小手指で、母とはひとまわり歳の離れた叔母(母の妹)に出くわし、一緒にバスに乗った。
私たちが到着した時には、もう母は入浴を終え、病室に戻ってきていた。入浴後のケアをひとしきりして、おやつを済ませると、「どこかへ行きたいなあ…」と母が呟く。
最近の母の声はもう、本当に耳をくっつけるようにしないと聴きとることができないほど、小さくくぐもっている。
近くにいたスタッフに、車椅子に移動させてもらい、部屋を出ようとすると、「下半身が苦しい」と母が言う。よく見れば、お尻の位置がしっかり椅子の奥まで来ておらず、おまけに胴体がいくらか捩じれた形で曲がっている。廊下で別のスタッフを呼びとめ、私と二人で抱きかかえるようにして
母の体勢を整えた。
介助をする時に、その人の気持ちが入っているかどうかが、こういうちょっとした場面で如実に判ってしまうから怖い。さっきのお二人は、ちょうど忙しくて急いていたのは分かっていた。
病院から少し歩くと、花畑がある。母が少し前に人から聞いて、行きたがっていた場所だ。ハナビシソウという黄色い花と、赤いポピーが咲いていた。他にもちらほらと、違う花が揺れていた。通路は土の上にシートを敷いた状態。
母の車椅子は背もたれの高い重たいものなので、道の勾配によっては傾いでしまう。真直ぐ進もうとすれば、結構な力が要る。そんな私の苦労はおかまいなしに、「もっと花の近くに寄ってよ」と、母は厳しい。
私が携帯のカメラを向けると、母は強張って上手く動かない指でピースサインをつくる。固まった顔の筋肉を引きつらせ、必死に口角をあげて笑みをつくる。
帽子を目深にかぶらせ、本人の希望で老眼鏡をかけさせたので、なんだか別人のように見える。顔の肉が削げ落ちて、面立ちもすっかり変わった。
最盛期には160センチ60キロだった母が、今は30キロ台の終わりのほうなのだから、どれだけの脂肪と、何より筋肉がなくなったのか、想像すると恐ろしいほどだと思う。
今朝、母の夢を見た。
私の夢の中の母は、いつも歩いている。母が歩いているのを、離れたところで私が見ている夢が多い。
夢の中の母はなぜか突然歩けるようになっていて、昔住んでいた西巣鴨の自宅の縁側を、両腕を上げて、おどけたポーズで、満面の笑みを浮かべながら、私のほうに向かって歩いてくる。
ああ、歩けるようになって喜んでいるんだな。だけど昔よりもこんなにスマートになって、なんだかスタイルいいじゃないの。
私はそんなふうに思いながら、母の姿を見ていた。母は今よりずっと若くって、髪も黒くって、何より底抜けに明るく見えた。
ああ、昔の母は確かこんな風に、お茶目に笑っていたんだったなと、私は不思議な気持ちで母を見ていた。
夢の中で母が着ていたのは、とても華やかな、赤や黄色やピンクの混じった柄物のパジャマで、花畑を見た時思わず、「ああ、この色だ」と想った。
起きた時には、母の夢のことはすっかり忘れていた。
かなり経ってから、陽射しの降り注ぐダイニングテーブルでコーヒーを飲みながらパンを齧ってた時にふと、鮮明に母の笑顔を想い出し、呆然とした。
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