「レビー小体型認知症かもしれない私」の備忘録 ⑤左手の誤作動/短期記憶障害/注意散漫
左手の誤作動
自分の左手が間違った動きをすることに気づいたのは、2016年あたりだったと思う。
目の前のテーブルの上には、日焼け止めローションのボトルと500mlのペットボトル飲料が並んでいた。私は日焼け止めを塗るつもりで手を伸ばし、蓋を開け、腕の皮膚にボトルの口を近づけた瞬間ギョッとした。緑茶が腕に降りかかる寸前だった。私の左手は間違ってお茶のボトルを掴んでいたのだ。
その時は、たまたま起こったミスだと思った。だってその程度のうっかりミスなら、きっと誰にでもあり得ることだ。しかしその後も度々おかしなことが続いた。
2リットルのペットボトルを傾け、お茶を携帯用の小さな水筒に移し入れた時だ。蓋を閉めるべく左手で掴んだ水筒の蓋を、私は迷いもなくペットボトルの口に押し当てた。「あ、間違えた」その時もただそう思ったが、これと同じ行為はその後何度も続いた。
電動ミルの蓋を開け、挽いたコーヒー粉をドリッパーの中のペーパーフィルターに注ぐ。そうしたら次の動作はドリッパーをマグにセットすることだ。それなのに私の左手は間違って、ドリッパーではなくミルの蓋をマグに被せてしまう。「あ、また間違えた」と思う。
他のことに気をとられてよそ見をしながらだったら、そういったこともあるだろう。しかし私はいつも両眼でしっかりと、自分の手元と対象物を見ていたのだ。自分の意識では「こうするつもり」なのに、左手はわざとそうしているみたいに間違った動作をする。
ショックだったのは料理中のミスだ。私はひとつめの卵を割ってボウルの中に入れ、左手で殻を(左側にある)シンクのゴミ受けに放り入れた。続けて2個目の卵を割り、同じように殻を放ったつもりだった。
しかしその動作をしながら私の眼には、ボウルの中に卵の殻が落ちる瞬間が映っていた。「え、何やってるの? 中身は?」と思って眼を遣ると、ボウルの右隣、キッチンカウンターの空きスペースに、盛り上がった黄身とスライムのような白身が広がっていた。
愕然とした。私は何をしているんだろう。卵を割ったのは両手だ。殻を放り込んだのは左手だ。卵を割る瞬間、殻を放る瞬間、私は手元を見ていたのではなかったか?
他にも同じような左手の誤作動がいくつもあった。頭では「こうする」つもりなのに、左手が左右を取り違えたり、対象物を間違えたりする。似たような動作、似たような形、左右にふたつ存在する物に対して何等かの動作をする時に、私の左手は馬鹿になる。脳からの指令に上手く反応できていない。
短期記憶障害
直前にした行動を憶えていないことがある。それをはっきりと自覚したのは3年以上前のことだ。
「あれ、薬飲んだっけ?」が始まりだった。日常的に服薬をしている人なら、きっと誰でも経験があると思う。
以前であれば、少し前の自分の行動の映像を思い出すことができた。イメージとして、体感として、「ああ、さっき確かに飲んだな」と確信できたような気がするのだ。
その「さっきのイメージ」が浮かばなくなった。いくら思い出そうとしても像が見えない。飲んだという確信がまったく持てない。私は必死に薬のPTP包装を探しまわった。ゴミ箱をひっくり返してみたりもした。
そんなことが何度か続いた後はさすがに懲りて、「飲んだ証拠」が眼に見えるように工夫し始めた。今は壁掛けタイプの薬カレンダーを使って管理している。1日4回、1週間分の薬だ。
たとえば「ついさっき風呂掃除をしたかどうか」、入浴中に「今、身体を洗ったかどうか」、就寝前に長年続けているストレッチの最中に「たった今、開脚を終えたかどうか」といった、数十分前、数分前、数十秒前の自分の行動を思い出せないことがある。
「確かにそれをした」というイメージが浮かばないのだが、時々は「あ、やったな」と思い出せることもある。
お湯張りの自動スイッチを押した、お風呂は沸いているとなぜか思いこみ、裸になって風呂蓋を開けたら浴槽が空だったり、面倒だけど洗い物を済ませておくかと袖まくりをしてキッチンに向かうと、シンク廻りは既にきれいに片付いていたりと、間抜けの連続だ。なぜやった気になっていたのか、そしていつの間にやり終えていたのか。謎である。
注意散漫/注意障害
日常生活の中の小さなミスは、数えきれないくらいに増えた。うっかり忘れて、うっかり見間違えて、どういうわけか混乱して、なぜだか不思議と取り違えて……。本来の自分らしくない(と自分では思う)行動が目立つようになった。
もともとそういうタイプの人、であれば問題ないが、私はむしろ真逆で、慎重すぎるほどの人間だった。約束の時間に遅れたり、服を後ろ前や裏表に着たりすることなんか、かつての自分だったら信じられないことだ。
この頃の私は、家中をウロウロと動き回っている。アレコレと小さな家事や探し物を思いつき、部屋を移動している。ひとつのことに集中できず、ひとつのことをやり終わるのに時間がかかる。
一日誰とも会話をしない日が多いせいか、頭の中に独り言が溢れている。次々と浮かび上がる思考や言葉に気をとられてそちらに注意が向いてしまい、ルーティンを滑らかにこなすことができない。
以前から私には就寝前の儀式が多くある。困ったことにそのルーティンは少しずつ増えていっており、強迫的なレベルに近づきつつある。就寝前のトイレの後に洗面所に行き、うがいをしてから寝室に戻る、というのも日課のひとつだ。
リビングのドアを開けると、廊下左手にトイレ、並んだ奥に洗面所がある。自然な動線であるのにほぼ毎日、トイレを済ませた足で寝室に戻ってしまう。うがいを忘れるのだ。ベッドに入る直前に気づいて、洗面所に出直す。大した距離ではないが馬鹿らしいと思う。
それならば、先にうがいをしてからトイレに行くように順番を変えればいいのでは? と思いついた晩、洗面所でまずうがいを済ませた。すると今度はトイレに行くのを忘れてしまい、そのことに気づかないまま就床した。
いつものように寝つけない時間を過ごしているうち強い尿意を感じ、トイレに行く。ベッドに戻り、今日はずいぶんトイレが近いなぁ、などと暢気なことを考えた瞬間、うがい後のトイレを忘れていたことにようやく気づく。自分に舌打ちしたくなる。
要するに、気が散ってばかりいるのだと思う。注意散漫。これを注意障害と呼ぶのだろうかと考える。
2022年夏に受けた神経心理検査では、あらゆる項目においてほぼパーフェクトに近い結果だった。その場で集中できれば(少なくとも2022年当時は)ミスすることもないようなのだ。
「そもそもあなたには認知症のニオイがしない」と初診時から疑惑の目を向けていた2つ目の病院の神経内科医は、私の神経心理検査結果を見て高らかに言った。「あなたは、まったくもって『認知症』ではない。あなたは自己肯定感が低いだけだ」。
まあそう言われることも、解らなくはない。実際私は自分を、少なくともまだ現時点では「認知症」とは考えていない。年齢アルアル程度のものなのか、あるいは病的なレベルなのか、正直判らないのだ。
一人で暮らしているので私には比較対象がない。同世代の同居人でもいれば、互いの肉体や脳の衰えを客観的に見較べて「まあこんなもんかな」と思えるものかもしれない。残念なことである。
それでもやっぱり、私の脳はどこかがおかしい。2024年の3月、そんな気がしていることだけは確かだ。