大震災

2011/03/11 14:46 マグニチュード9

三陸沖を震源とし

宮城県 震度7を観測

東日本大震災発生


命がある

生きている

起き上がる

外に出てみる


まさに…惨劇

失ったものは大きい

心への衝撃も大きい

得たものなんて

何もない


戦後の写真

一面焼け野原と

瓜二つの光景

自然の奇襲により

一瞬で全てを奪われた


ライフラインは

全面ストップし

物資も手に入りづらく

情報も混乱していた


でも生きている

命がある

何とかなる


無くしたものは

失ったものは

もう戻ってこないかもしれない


それでも

命在るものは

弱音を吐きながら

涙を流しながら

助け合いながら

支え合いながら

希望を捨てずに

生きている


老若男女

国籍問わず

人として

地球人として

一つになって

*********************

昔の詩を今日もお届けします。

震災から数日後にしたためた詩です。
この日から10年もの月日が流れたんですね。
当時僕は仙台に居ました。
この日の2日前か3日前にも大きめの地震が来ていたのを覚えています。

そして、運命の日。
建物は崩れ、信号は機能を失い、道路はまるで撹乱した蟻の行列の如く車も人も混乱の中に居ました。
そして、今度は空が追い討ちをかけるように雪が降り始めました。
雪が降りしきる中、家へと歩いて向かったのです。
1時間以上歩き、寒さも感じなくなっていました。
見慣れたはずの景色は、面影だけを残し、本当に別世界にいるかのような錯覚を起こすほどの変わりようでした。
マンションに着き、家の中はめちゃくちゃでした。
呆然としているうちに、あたりは暗くなり、そのまま夜はマンションで過ごしましたが、余震がしつこいくらい来ていました。
懐中電灯の光とロウソクの火で明かりを灯し、家の中は靴を履いて過ごしました。
次の日、ベランダから観た景色は僕の知らない景色でした。
近くのスーパーで長い行列に並び、物資の調達をし、近くの公園で炊き出しを頂きました。
またいつ地震が来て建物が崩壊するかわからないので、その日からは車に寝泊まりをしました。
知り合いの家に行ったりして、過ごした日々はとても長く感じる数週間でした。
そして、電気が通りテレビを観て更なる絶望を目の当たりにしました。
津波が飲み込んで奪い去っていく光景です。
そして、原発事故による被害もです。
僕なんか全然マシなのだということも同時に思い知らされました。命の選択を瞬時にしなければいけなかったり、命の終わりを肌で感じたり、恐怖や喪失感、悲しみや苦しみや絶望以外地震と津波が消し去られてしまったのですから。


忘れないことが大切とか伝えていくことが大切だとみんな言いますが、風化したり、書き換えられてしまったりすることがほとんどだと思います。
だからやっぱり、形にして残すことが一番の忘れないと伝承に繋がるんだと思います。

今後いつ何が起こるのかわからない中で、日常は簡単に崩れ、命は簡単に奪われることを思い知らされているからこそ、できることがあると思います。

本来であれば一緒に見ていたはずの景色を一人で見ることになってしまったとして、感じることとか色々なものを一緒に共有できなくなってしまったとして。
いつかはみんな同じところにいくとするならば、その時の酒の肴になるようなこととかあっちで笑われないように、今をちゃんと生きて報告できるように刻んで生きたいものです。
残された側の辛さは身をもって立証済みです。
残す側も想像ですが、辛さは同等かそれ以上かも知れません。
また会えたときに、胸を張って会いたいですからね。

最後まで読んで頂き、ありがとうございましたm(_ _)m

黙祷。

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