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キリスト教思想の形成者たち エピローグ

今、こちらの本と、取り組み中です…。

前回は、本書の「序」、最初の部分を扱いました。
今回は、まだ本論に入らずに、本書の「エピローグ」、副題が「時代にかなった神学への指針」というタイトルの…これだけで、十分な「読み物」なので、そちらを取り上げたいと思います。
まずら、あらかじめ、お断りしておきたいのですが、いつででしたら、2,000文字を目安に、投稿をさせて頂いているのですが、今回は、引用が若干長くなるため、この文字制限を超えて、長文となりますことを、あらかじめ、ご了解を賜りますことを...。
では、早速、引用をはじめます。

 パウロ、オリゲネス、アウグスティヌス、トマス、ルター、シュライエルマッハー、バルト。読者諸兄姉がこれら偉大なキリスト教思想家から学んだ事柄、彼らの長所と短所、彼らの洞察と限界は非常に多様だろう。私に関して言えば、彼らの人格と彼らの仕事に取り組んできた中で、ほとんどの場合はこの多様さを学んできたのである。とはいえ私は今、結びにあたって、総括のようなことをしようとは思わないしできもしない。統合的な比較はすべて複雑すぎるだろう。だからここでは、あまりにも異なった七つの声による七重唱で締めくくるのではなく、著者であるわたしの短いエピローグ、とはいえ短い無味乾燥な学問的散文であるが-「時代にかなった神学への指針」を紹介することでご容赦願いたい。

『キリスト教思想の形成者たち』エピローグより引用

上記は「エピローグ」が書かれる導入部分で、そのタイトルは「時代にかなった神学への指針」となります。続けて、引用をいたします。ここからが今回の本題となります。

もし私たちが人生の大半をこれら偉大なキリスト教思想家たちと(また何人かの他の思想家たちも付け加えて)取り組んだとすると、つまりもし私たちが彼らすべてから常に新しく学ぼうと試み、しかも彼らの誰の虜(とりこ)にもならなかったとするなら、わたしたちに突き付けられる問いとは「どの神学」が今日望まれているのか、私たち自身は今日どの神学を「営む」べきなのか、というものである。私は、これまで数十年の歴史の中で、神学するということのために自分にとって重要になってきた、三つの観点・判断基準に、自分を絞っている。それは神学の「エトス」と「スタイル」と「プログラム性」である。

『キリスト教思想の形成者たち』エピローグより引用

第一に、神学するということのすべての「エトス(倫理・思想の基礎)」に関して、現代において必要なのは以下のような神学だと私には思える。

(1)日和見主義ないし大勢順応主義でない「誠実な」神学。信仰について思考しつつ弁明することである。キリスト教的真理を誠実に探究し語る神学。

(2)権威主義的でない「自由な」神学。自身の課題を、教会管理者の側から官僚的措置や認可などの妨害なしに実行し、自身の根拠ある確信を、最高の知識と良心に従って言い表しまた書き表す神学。

(3)伝統主義的でない「批判的な」神学。自身が自由にまた誠実に、学問的な真理のエトスに、方法論的な学問分野に、自身の問題設定や方法や結論のすべてへの批判的検証に、義務づけられているのを知っている神学。

(4)教派主義的でない「エキュメニカルな」神学。そのつど別の神学の中に、もはや敵を見るのではなく、パートナーを見ており、分裂の代わりに理解を目指している神学。これには2つの方向がある。「内部に向かって」は教会間的・キリスト教内的なエクメーネー(すべての教会の総体)の領域を目指す神学。「外部に向かって」は、教会外、キリスト教外の、様々な地域、宗教、イデオロギー、学問を伴う、世界エクメーネーを目指す神学。

『キリスト教思想の形成者たち』エピローグより引用

神学することの「エートス(倫理・思想の基盤)において、重要なキーワードは「誠実な」「自由な」「批判的な」「エキュメニカルな」神学である、とのことでした。

つづいて、著者(ハンス・キュング)は、神学の「スタイル」として「十戒」に模して、10の項目を列挙します。

(1)すでに信仰している人たちだけのための秘教学ではなく、信仰していない人たちのためでもある「わかりやすさ」
(2)素朴な信仰を推奨したり妨害したり教会システムを妨害したりするためではなく、厳密な「学問性」における真理のための妥協なき努力
(3)イデオロギー上の敵は無視されたり、異端視されたり、神学的に横領されたりしてはならない。むしろ「批判的同感」において最良の仕方へと解釈さて、同時に公正な、事柄に即した討論にさらされるべきである。
(4)「学際性」は単に望まれるだけでなく、実行されねばならない。関連し合った学問との対話と自身の専門の事柄への集中は補完し合っている。
(5)敵対的対立ではないが、平和的・穏和的併存でもない。そうでなく、「批判的・対話的な共同」、特に神学と哲学の、自然科学や人間科学の、神学と文学の共同が重要である。宗教と宗教性は補完し合っているが、宗教と文芸も補完し合っているのである。
(6)過去の諸問題が優先されるべきではなく、「今日の」人間と人間社会の広大で多層的な諸問題が優先されるべきである。
(7)キリスト教神学において他のすべての規範を規定している根源規範は、なんらかの教会的伝統あるいは教会組織であってはならない。それは福音、すなわち「本来のキリスト教の使信」そのものである。福音において方向づけられた神学。しかしこの福音は、歴史的、批判的に理解される。
(8)聖書の復古主義やヘレニズム的・スコラ学的な教条主義において語られるのではなく、哲学的・神学的な隠語で語られるのでもない。むしろ可能なかぎり、今日の人間に「一般に理解できる言語」で語られるべきである。
(9)「信じられうる理論」と「生きられうる実践」、教義学と倫理学、個人的な敬虔さと組織の改革、社会における解放と、教会における解放とは、切り離されてはならない。むしろそれは、破ることのできない関係において見られるべきである。
(10)教義主義的閉鎖性ではなく、「エキュメニカルな広さ」が必要である。この広さが、世界の諸宗教のみならず、現代のイデオロギーを共に考慮に入れるのである。教会外の事柄、宗教一般の事柄、人間一般の事柄に対する寛容には、大きな可能性がある。この寛容と特殊キリスト教的なものの形成とは、互いに補完し合っているのである。

『キリスト教思想の形成者たち』エピローグより引用

著者は、神学のスタイル、そのキーワードとして「わかりやすさ」「学問性」「批判的同感」「学際性」「批判的・対話的な共同」「今日の」「本来のキリスト教の使信」「一般に理解できる言語」「信じられうる理論」「生きられうる実践」「エキュメニカルな広大さ」を挙げていました。

そろそろ引用も終わりに近づいて参りました...。続けます。

 最後に、神学、しかも「批判的・エキュメニカルな神学プログラム性」に関わる事柄である。そのような神学はあらゆる新しい時代において緊張に堪え抜き、再び新しく「同時的に」ある、ということをもとめなければならない(ここでは宗教改革的な「のみ」(Allein)はそれでよいとして、しかし「とも」(Und)ということが命じられている)。
(1)「カトリック的」に、常に教会全体、普遍的教会のために努力がなされ、‐そして同時に「福音主義的」に、厳密に聖書へと福音へと関連づけられている。
(2)「伝統的」に、常に歴史の前で責任を負いつつ、-そして同時に「同時代的」に、現代の諸問題を取り上げ、関わってゆく。
(3)「キリスト中心的」に、決定的に選択的にキリスト教的であり、-そしてしかし、「エキュメニカル」に、エクメーネつまり人間が居住する全地球、全教会、全地域へと向いている。
(4)「理論的・学問的」に、説教、学問に従事し、-そして同時に「実践的・牧会的)に、生命のため更新のため改革のため努力している。

『キリスト教思想の形成者たち』エピローグより引用

今回は、本書からの引用が長かったものですから、3,000文字を超えました。
ハンス・キュングが『時代にかなった神学への指針』と題して、本書の「エピローグ」の場を借りて著した、小論でした。

まずは、ご一読を賜りました皆さまには、心からの感謝を申し上げます。

ありがとうござましたm(__)m

次回は、本書を邦訳した片山寛氏による「あとがき」によって、ハンス・キュング氏の人生、その足跡を簡単に追い求めたいと思っています。

それでは、またの機会に、お元気で。

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