まずは、読書会当日に配布した資料を、例によって、PDFファイルにてダウンロードできるように、以下に、リンクを貼っておきます。
続いて、引用箇所を以下に列挙致します。
空海は、血族の威信を背負っての、当時のエリートコースである、大学の明経科を止めて、私渡僧(※自称「僧侶」といったところ…国家により承認された僧侶ではない)になった。
このあと、作家、司馬遼太郎は、まだ空海が血気盛んな若者…である、という接点から、なかば強引に、般若理趣経の話題を持ち出しはじめる。
これは、かなり唐突であり、はたして、真言密教とは「女犯」を、どのように考えている宗門なのか?と、疑問を持たれる方も多いであろうことを十分承知の上で、司馬遼太郎の筆跡を追ってゆくことにする。
まず、司馬遼太郎は、青年空海の、性欲への横溢を案じているかのような素振りをしながら、次の本題に切り込んでいく。
作家、司馬遼太郎が、空海が、後に、32歳のときに中国は、当の長安にて出会った、ひとつの経典、『理趣経』を、殊更に重んじたのは、この若かりし頃の空海における実体験に裏打ちされたものがあるのではないか?と、推量してみせるのである。
司馬遼太郎の筆は、さらに走ってゆく。
人間の抱える、いわゆる「3大欲求」として、食欲、睡眠欲、性欲…この3つともども、仏教は「行(※修行のこと)」を通じて、これに振り回されないよう、悪戦苦闘を重ねた、長い歴史を持っているのだが、それを空海は、さらっと、とび越えてしまうのである。食事は、時として「欲」であり(※これを徹底して肉を食べない、禅宗などでは「精進料理」が有名)、また、睡眠欲も、時として「欲」であり(※不眠不休により、睡魔を克服しようとする過酷な「行」が、比叡山には残っている)、では、無論のこと「欲」として扱われてきた「性欲」に、空海が出した、ひとつの「答え」が『理趣経』のなかには眠っている。
作家、司馬遼太郎は、当の長安で、32歳のときに空海が『理趣経』を見出す以前に、自らの性欲に光を当てて「空海は、自分の体の中に満ちてきた性欲という、この厄介で甘美で、しかも結局は生命そのものである自然力を、自己と同一化して懊悩(おうのう)したり陶酔したりすることなく、「これはなんだろう」と、自分以外の他者として観察するという奇妙な精神構造を持っていた」と解釈している。
そのような青年、空海がなくば、理趣経(般若波羅蜜多理趣品)を、真言宗という宗門において、あれほど「重き」を置かなかったであろうことを推察している…その鍵は、若き日の空海にあるに、違いない…と。
その推察はさておき、たしかに、理趣経という経典が、大正期を境として、ここ日本では、性欲を扱った記述の含まれる経典である…ということで、世俗的な注目があつまったが、大乗仏教の教理にある、龍樹(ナーガール・ジュナ)が説いた「空」の教えであったり、また『維摩経(ゆいまきょう)』に見える「不二の法門」という境地の先には、たしかに、この『理趣経』が説く「性欲」もまた「清浄」であり「菩薩の位なり」という終着地点は、想像にかなくないところがある。
空海は、大乗仏教、そのなかでも、宗教史的には後半部分に属する「密教」を「体系化」した、傑出した、日本における、稀有の人物であるから、一般信徒、さらには仏教には門外漢の人々にとっては、『理趣経』とは、性的な興味の対象に過ぎないかも知れないが、少なくとも、司馬遼太郎は、青年期の空海が、性欲を、どう捉えていたか?において、その鍵を開こうとしている。あらためて、以下、引用しておこう。
こうした、若かりし空海あってこそ、今日の、真言宗における『理趣経』がある…と、作家、司馬遼太郎は、見ているのである。