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「日々の大切な習慣」は思いつかないけど

「日々の大切な習慣」

 そう聞かれてすぐに思いつく習慣はなかった。いや、あるのかもしれないけど当たり前すぎて思い浮かばないだけかもしれない。

 私の生まれ育った家庭は、昭和30年代の核家族であり仏壇もなければ祖父母も同居していなかった。しかし、結婚して妻の実家での生活になったら、朝起きたら湯を沸かし、お茶をいれて仏壇にお供えすることから1日がはじまる。ご飯が炊けたら「仏飯器」に装ってお供えし、何か頂き物があればまずはお供えする。そして、何かといえばお線香をあげて手を合わせる。月命日の法事として毎月お坊さんが訪ねてきて読経してくださる。日曜日となれば街中に原付バイクに乗ったお坊さんが走り回り、読経するべき家へと駆けていく。そんな風景がこの街にはある。

 この街に越してきてからもう四半世紀経つが、今でもまだ仏壇の存在を忘れてしまう。頂き物があってもすぐに開封して食べてしまったり、炊き立てのご飯もつい先に自分のを盛ってしまう。小さい頃からそういった習慣がない者にとってはなかなかそれを身につけるのは大変なのだ。妻は当たり前のようにその習慣をこなすことができるし、出来ない私を責めることもしない。そして、子どもたちにもその習慣を押し付けたりもしない。それが良いのか悪いのかわからないが、子どもたちは「まずはご先祖様に」という意識はない。たまに帰省しても仏壇に手を合わせたりもしない。

 言葉にすれば「ご先祖さまを大切に思うやさしい子に育てたい」となるかもしれないが、それは体にしみ込んでしまった習慣なので、その習慣があるからとイコールやさしい人とは限らないとは思う。妻も「自分でも面倒臭いと思う」という。「やらないと気持ち悪いし罪悪感を覚えちゃうから面倒」だともいう。そんな妻も「それでも祈ることは大事だよ」という。それには大いに同意する。

 みんなそれぞれに敬い方がある。大切にしている習慣もただ体がそう覚えてしまっているだけでやらないとしっくりこないからというだけかもしれない。神棚や仏壇の前に立てば自然と首を垂れて手を合わせてしまう。神社仏閣では大声たてずに静かにする。神仏に礼を尽くす。たとえ自分が信じていないことでも、それを大切にしている人がいればそれを踏み躙るようなことはしない。そんなことを当たり前に思うことは最低限必要だと思う。

 「こだわり」というのは仏教的には良いことではない。何事にも「こだわるな」というのが教えだ。昨今こだわることが良いことのような風潮もあるが、行き過ぎはいけない。こだわることで人を責めたり、こうあるべきと独自の正義を振りかざすのもあまりやりたくない。「日々の大切な習慣」も、自分が気持ちよくあればいいと思う。自分がそれで満足し、気持ちが落ち着けばいい。それが何より一番なのだと自分ではそう思っている。

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