小河原 常美さんによる羽島焼きの器〜悲しみとの対話〜
倉敷では、倉敷市玉島の円通寺で修行をした禅僧・歌人、良寛さんにちなんで、芸術祭が行われました(全国良寛大会記念作品展:令和3年5月9日〜20日)。会場のひとつである倉敷本通り商店街のギャラリー・メリーノに訪れてみると、とても悲しい器と出会いました。
小河原 常美さんによる、羽島焼きの「大葉天目釉茶盌」です。漆黒の肌の上に、落葉樹の落葉が焼き込まれた茶の湯用の天目茶碗です。両手に取って眺めていると、悲しみが降り積もってきます。この器は、なぜ、こんなに悲しいのでしょうか。
同じ作者の、落ち葉を焼き込んだ銘々皿を見ると、悲しみの度合いが浅く感じられます。
同じデザインなのに、両者の違いはどこにあるのか。筆者は、茶碗の葉が碗の曲面に沿って、少し起こされているからだと考えました。
突然、話は跳びますが、落葉した葉は死者になぞらえることができます。今の時代、ほとんどの人は病院で亡くなります。亡くなった人は、看護職員によってできるだけ生前の状態に近づけるように死後の処置が行われます。その後、ストレチャーに載せて、迎えに来た葬儀会社の専用車両に受け渡し、お見送りをします。
この間、死者の体を起こすことはありません。看護部長や看護師長を経験した看護職員に訊いてみましたが、長い勤務経験の中で死者をベッド上で起こしたことは一度もなかったそうです。遷延性意識障害の患者さんと家族が面会するときに、少しベッドを起こすことがあるのと対照的です。
死者は、祭礼施設へと移され、納棺されますが、筆者の知る限り、寝た姿勢で収める寝棺に横たえられます。式典が執り行われた後、出棺となり、霊柩車に移されて、家族・近親者と共に火葬場に向かいます。
施設に到着すると、最後のお別れの後、柩は鉄のレールの上を滑って、炉の中へ移されて、炉の扉が閉鎖され、火葬が開始となります。
病院を出てからここまでの一連の過程は、専門職によって儀礼化された手順に従って滞りなく行われます。家族や近親者はその流れに従います。
その間、死者は水平に寝たままです。それは死者が、寝たまま舟にのって、水面を滑るように、すうーっと運ばれて、水平線の彼方へ消えて行くかのごとしです。水面の上には、晴天の空がイメージされます。
一方、かつて我々の二世代・三世代前は土葬でした。死者は、自宅で看取られ、家族・近親者によって装束を整えられて、座った姿勢で座棺に納棺されました1)。
筆者は、5歳の時に祖母が亡くなったのですが、祖母が白い旅装束になり、わらじを履かせてもらい、木製の立方体の座棺に座った姿勢で納棺されたのを鮮明に覚えています。座棺は、運搬用の木組みの台に乗せて人々に担がれ、葬列とともに徒歩でゆっくりと、生前に慣れ親しんだ舗装されていない土のままの道筋を、惜しむかのようにして、先祖代々の墓場へと運ばれます。
柩は、藁の縄を使って墓穴深くに収められると、長い棒を使って蓋が開けられて、最後の別れをしながら、参列者によって素手で土を被せたのを覚えています。茶碗の落ち葉には、その時の光景とつながるものがあります。ちなみに、歴代の徳川将軍も座って埋葬されているそうです。
土葬の場合、一連の過程は、伝承を引き継ぐ、家族・近親者・近隣の人々による手作りであり、自宅から墓場までの道のりは、悲しみが時雨(しぐれ)のように降って、濡れて行くイメージです。
銘々皿の落ち葉は、起きることなく滑らかに去って行く今の死者で、茶碗の落ち葉は、座って徒歩で一歩一歩運ばれて旅立つ、かつての死者ではないでしょうか。
小笠原さんの器は、悲しみを惹起します。柳田邦男は、悲しみは否定的なものではなく、悲しみの感情や涙は、実は心を耕し、他者への理解を深め、すがすがしく明日を生きるエネルギー源となるものだ、と述べています2)。
羽島焼きは、倉敷の東の郊外にあって、昭和二十一年(1946年)に始められました。小河原 常美さんは窯元の三代目です。飾り気のない用の美を追究した器でしたが、常美さんは新たな精神の表現を追究されているように感じられました。
小河原 常美さんについて,さらに詳しくは、こちら。
文献
1)高橋繁行・著:土葬の村. 講談社現代新書2606, 講談社, 2021. P18-44
2)「悲しみ」の復権:柳田邦男・著: 言葉の力、生きる力. 新潮文庫, 新潮社. 2011, P140-144.