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小さな発表会で思ったこと② 演じること

「小さな発表会」と題することに前回から若干のこっ恥ずかしさはあるのですが、それが一番しっくりきてしまい、それ以外でてこない。

それは置いといて、前回はその小さな発表会での「思わぬミス」と反省点について書いてみました。

今回は、演じることの不思議な感覚について感じたことを拙いながら初心者の感じるままに言語化してみようと思っています。

今現在、マジックの勉強の基礎としてストレートプレイングカード特典のふじいあきらさんのレクチャー動画をちょっとずつ勉強しています。

種・技法はもちろん、しぐさや文言まで繊細な説明があるので丁寧に練習すれば一通りの流れがこのド素人くらもとにも多少、真似できるようになるという、ありがたやな内容です。

今まで友人などに対して1〜2演目ずつ演技してたときは、演ずるための言葉というのは技法を繋げるための嘘や方便くらいにしか思ってませんでした。(正直演じるとは言葉ばかりで、とってつけたように話すのが精一杯レベルですが)

しかし、今回は「4演目」という長尺を経験させてもらってそれとはちょっと違う感覚に陥りました。
嘘をつく、または、読み上げる、というより「役」をすることに近いのでは…?と思ったんです。
演ずる、というのだから読んで字の如くなんですけど、いまひとつ自分の中で落とし込めてなかったことが少しだけ腹に収まった気がしたのです。

それを理解した瞬間というのがありまして、勉強だけしていた時はただただ「口上」として頭に入れていたものが、相手に対してはちゃんと「自分の言葉」として伝わった時です。

「こんな結果になるなんて、私とあなたの相性はぴったりですね〜」なんて言った時に、相手は「またまたー」などと笑ってくれたのです。ああこの言葉は正しく使えばただの口上ではなくちゃんとしたやりとりになるし、それが「演者の、自身のキャラクター」になるのだと感じました。そしてまた新しいことに踏み入ったような気がして嬉しくも思いました。

口上は魅せるキャラクターを作るための一つの大事な要素。今の己がなんとなくできる演技はほとんど9割「ふじいさんの動画のコピー」で構成されています。ふじいさんというプロが作ったキャラと口上なのだなと再認識。

自分以外の言葉で話し、それを自分と認識される不思議さは前々回くらいにも書きましたが、長尺の効果でより深いところを覗けた気がします。

演技とその作り手・教え手(マジシャン)との関係性を深く意識できた体験でした。まだまだマジックってなんだろうっていうことがわかっていない。見る側だけではわからなかったことが、掘れば掘るほど湧き上がってきます。まだまだ何もかもが新しく楽しいですね。

余談

またこの体験で音楽をやっていた頃のことを思い出していました。

音楽は、普段自宅で曲を弾いたり作ったりして淡々と楽しんでいるだけでした。けれども「人前で弾く場」というのが一年に一回~数度設けられたのです。

先生は優しく色んな事を教えてくれていました。「もっと体揺らして入り込んでるように弾いた方がいいよ!」と言ってたものです。
当時はこっそり自分だけで楽しみたいだけなのに、なんでやねんと思ってましたが、曲がりなりにもわざわざ人前で弾く機会には「魅せる」配慮はあるに越したことはなかったんだなあなどと思います。(今は大げさなほどに体揺らせます)


いや、正確に言えば理由なんて頭ではわかってました。が、人前が嫌いすぎて楽しむとか楽しめるようになりたいとか、今よりよく見せたいという欲求が生まれず、反発心があって魅せる訓練と一切向き合えなかった。
ステージの前で聴いてくれてる人のことなんか見れたこともない。怖くて。あっちが暗くてこっちは明るいから、ぼんやりとしか見えないのがまだ救いだった。

観衆と心を通わせるだとか、その場の空気をよんでどうだとか考えて人前に立ったことがないし、今でもできるかと言われれば絶対無理。ただ家で弾いていたまま「いつもの一人の部屋だ」と思い込んでやりすごす、そんなんだった。

そんな人間によく先生は根気強く教えてくれたものだと思います。

先生とは教室をやめたいまでも個人的な付き合いがあって長く大事にしていただいてるので、今度会ったら「せんせ、弾くときのパフォーマンスってどういうとこで勉強してたんすかー」くらいの雑談程度になんかきいてみようかなと思っています。

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くらもと
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