毎日エッセイ2 12月2日〜9日
「毎日エッセイ」を終えて
2週間毎日短いエッセイを書いてみようと思って始めた「毎日エッセイ」も昨日で14回目を迎えた。2日ほど書かなかった日もあった(どちらも水曜日、水曜日は忙しいのだ)ので、2週間と二日かかったことになる。
最初は本当に書けるか少し心配していたのだけど、それほど苦しくはなかった。エッセイを書くぞ、という気持ちでいると、自然に何かが思い浮かび、時間さえ作れればなんとかなるということがわかった。執筆時間はだいたい1時間くらい。長文の場合は2時間くらいかかったと思う。ただこれは今小説を書いていないからで、もし必死で小説を書いている時期ならば、エッセイまで書く気力は残らなかっただろう。
もともとこれまでエッセイを数回しか書いたことがなかったし、それはすべて依頼されてのものだ。自分から書こうと思ったことはなかった。(あ、でも、依頼されて初めて書いたエッセイが『ベスト・エッセイ2013』https://www.mitsumura-tosho.co.jp/shohin/essay/book72.htmlというのに収録されたのだった。ビギナーズ・ラックだろうか。あれは嬉しかった。)
でも毎日書いてみると結構楽しかった。頭の中でぐるぐるしていて、やがてきえてしまう想念がこうして言葉として残る。その快感があった。言葉にしてみると、頭の中の想念は5割くらいかさが増す。考えていなかったことまで、言葉として出てくる。それもよかった。
ただ後半はたいてい本を読んで考えたことになってしまい、書評ブログみたいになってしまった。つくづく自分はブッキッシュな人間で、身の回りで起きていることよりも、そのとき本で読んでいることの方がリアルなのだと思った。でも、それって小説家としてはどうなんだろう?
とりあえずこれで毎日エッセイは終わるが、これからも時々、やってみようと思う。2週間ではなく、三日間とかの短期でもいいかもしれない。それから、書評も意識して書いてみようと思った。
12月9日
いただいたベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳』を読んでいる。ありがとうございます。第一部が「現代における学問的知見のあり方」、第二部が「功利主義」、第三部が「ジェンダー論」、第四部が「幸福論」という章立てになっている。期待したい。
現在、第一部第二章「人文学は何の役に立つのか?」まで読んだところだ。橋下元府知事の「日本の人文系の学者の酷さ」をあげつらうツイートを引用して、このような人文学不要論に対して、どのような対応をすべきかが論じられている。
結論は至極真っ当で、地味とさえ言えるものだ。民主主義を健全に機能させるためには、批判的思考や想像力を持った市民が必要になる。人文学の訓練はそうした市民を作り出す。
まったく異論はない。歴史を見れば、あるいは現在の世界を見渡しても、紛争や擾乱やクーデターのない社会のためには、市民的知性を備えた中間層の分厚さが不可欠で、そのためには高等教育が大きな役割を果たすというのは、ごく一般的な事実といっていいだろう。
とはいうものの、実際に橋下発言を支持しているような人たちは、日本の経済的地盤沈下の不安から、「市民的知性の涵養なんて金になるかよ」と感じているのではないかと思う。そして子供のために高い学費を出す親たちも、そんな「市民」なんて抽象的なものよりも食いっぱぐれないか、就職できるかが気になるんです、と言いそうだ(註1)。
註1:市民的知性──を浅いレベルでとらえると──ほぼ言語を論理的に運用する能力と言っていいので、実は就職にはかなり役立つと思う。すごく皮相なレベルで言えば、ゼミで発表を繰り返していれば、面接官の前でもそれほど物おじせず、堂々と自分の意見を述べられるはずだ。あと、さらに現代的な事情として、もし自分が大企業の人事担当者だったら、ジェンダー問題や差別問題で不穏当なことを口走りそうな学生はまず最初にはねるはずだ。社員のそんな言動で炎上でもしたらたまったもんではないからだ。するとジェンダー論の基礎くらいは(真に深く理解しているかではなく、とりあえずこういうこと言っちゃ今どきまずいよね、みたいなレベルで)知っている学生の方がいいわけで、またしても人文学が表面的に役立ってしまうのではないか。人文学の価値を主張できるのはいいけれど、なんかすごく薄っぺらい話なわけで、複雑な気分だ。
12月7日
川本直『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』を読んだ。物足りない部分もあるにせよ、大変なpageturnerで、一気に読んでしまった。自分はADHD傾向があって、次々に別の本を読み出してしまうために、一冊を一息に読み終えるということがほとんどない。数ヶ月ぶりに、他の本を差し置いて読み耽ってしまった。
この本の魅力として、皮肉なユーモアや、次から次に出来事が起きる展開の速さ、ストーンズやウォーホールのようなビッグがいろいろ登場するところなどが挙げられるだろうが、個人的には、1950年台から70年代くらいまでのアメリカ文学シーンを詳細に知ることができる部分だと思っている。詳細に、というと語弊があるかもしれなくて、我が身で体験したように、というべきかもしれない。
ゴア・ヴィダル、トルーマン・カポーティ、ウイリアム・バロウズ、ポール・ボウルズと綺羅星の如く、伝説的な文人が登場し、二人の主人公と関係する。特にヴィダルとカポーティはジュリアン・バトラーの若き日からの友人であり、ライバルであり、かなり重要な役回りと言っていい。
ところで自分はゴア・ヴィダルについてほとんど知らない。名前を聞いたことがある程度、本を手に取った覚えもない。カポーティは好きだけど、ずっと不思議に思っていたのは、彼が有名なセレブで社交界の寵児だったという話。カポーティの紹介には必ずそうしたことが書いてあるのだが(自分も授業でそのように説明してきたのだけど)、あんなにシャイで内向的な作品を書く人が、どうやってセレブになるのか、どうしてもイメージがわかずにきた。それから例えばノーマン・メイラー。この人の本もちゃんと読んでない。『裸者と死者』、たしか冒頭で挫折してる。
自分が二十代の頃に出会ったアメリカ文学は、ポール・オースターや、スティーヴン・ミルハウザーや、レイモンド・カーヴァーや、スティーヴ・エリクソンで、それらは主に柴田元幸と村上春樹という二大巨頭に牽引されて、続々と新刊が翻訳されて書店に並んでいた作家たちだった。それから、20年代、30年代の作家たち、つまりヘミングウェイやチャンドラーやフィッツジェラルドも、いわば青春の書として一度は読むようなものだろう。ディックのようなSF枠はひとまず置くとして、自分が読んできたそうした作家たちは、基本的にアメリカ社会の主流に背を向けてどこか片隅にいる感じがあって、超大国であるアメリカの繁栄、巨大さ、マチズモ、傲慢さから距離を置いているように思われた(ヘミングウェイはちょっと違うかもしれないが)。
だが『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』に出てくるのは、それとは違う文学世界である。もっと派手で、スノッブで、巨万の金と結びつき、雑誌のゴシップ欄を賑わすような作家の姿である。日本で似たような作家はいたのだろうか。寺山修司や三島由紀夫を思い出せばいいのだろうか。
つまりアメリカの繁栄が絶頂を極めた1950年代60年代には、作家もまたスターであり、セレブであり、オピニオンリーダーだったらしいのだ。もちろんボウルズやバロウズはそういうタイプではない。サリンジャーも違う。ピンチョンだって違うだろう。カポーティは、作品はマイナーポエット感にあふれているのに、そういう「有名人」になることを選んだ。『ジュリアン・バトラー』が面白かったのは、そういう僕にはどうしてもピンと来なかった作家がスターであった時代を目に見えるように描いてくれたからだ。
ゴア・ヴィダルやノーマン・メイラーが読まれなくなったのは(アメリカでは今も読まれているのかな? どうなんだろう)、そういう社会の中心で発言する作家の姿をイメージできなくなったからではないか。文学はマイナーでニッチなカルチャーになったのだ。80年代の文学はすでにそうだったと思う。
12月6日
本当に寒い。これまで秋晴れのような日々が続き、窓から外を眺めているだけで(書類仕事でずっと机に張り付いていなければならなかったのが悔しいけれども)、気持ちが明るくなるようだったのが、突然どんよりとした冬がやってきてしまったようだ。しかめ面の雲が空を覆い、空気はじっとり湿って重たい。
正月は毎年、妻の実家のある岩手で過ごすことになっていて、それは楽しい時間なのだが、雪国の暗い空だけはうんざりする。その岩手を思い出す天気だった。
午後1時に新宿で編集者の方と会う。これから一緒に仕事ができるかどうかの打ち合わせだったのだけど、諸事情あってどうなるかはわからない。今の自分にとっての問題は、依頼があるかどうかではなく、何をどう書くか迷いが生じていることで、これは時間をかけてほぐしていくしかない。一応道筋は見えていると思うのだが。
それから家へトンボ帰りして、子供の三者面談。授業も部活もそのために早退けになっていて、校舎には人気がなかった。古い校舎の暗い廊下をずっと歩いていると、あらためて中学校というものの暗さがしみ入ってくる。自分にとって、中学時代というのは息が詰まるような日々だった。はっきりとした悩みがあるわけではなかったのに、環境や身体の変化に適応できず、自分自身が鈍重な鉛になってしまったように感じていた。どうしてもその頃の記憶が甦るのか、殺風景なコンクリートの校舎の中にいると、悲しみのようなものが込み上げてしまう。
12月5日 ごっこ的想像力について
昨日のエッセイで、僕は渡辺健一郎の「演劇教育の時代」は違った分野に適用できるのではないか、と書いた。具体例を挙げると、これを男性論的に読み替えられるのではと思った。
どういうことか。
渡辺は教育にどうしても内在してしまう権力関係を問題にしている。教えるー教えられる関係の中では、指示、命令、評価、処罰などがどうしても必要になってしまう。その権力を解消するために、参加自由の「ワークショップ化」が唱えられ、実践として演劇(play=遊び)が導入される、と渡辺は論じていた。
しかし権力関係が不可避的に内在してしまうのは教育現場だけではない。家庭にもまた教育現場以上の非対称性が存在している。親子がそれだ。もちろんそれは適切に保護・管理しなければ、子供が──身体的にも精神的にも──危機にさらされてしまうような脆弱な存在だからだ。そのために、親子間の権力関係は不可欠である(子供が危険な目にあわないよう監視し、時には叱りつけなければならない)。
だが同時に、児童虐待が大きな問題になるように、その権力自体が暴力にもなりうる。だから親は自分の権力が害のあるものにならないよう注意深く自己管理する必要がある。
これが教育と相同的な事態なのは明らかだ。ゆえに家庭もワークショップ化していくほかはない。子供の内的な欲求や資質を注意深く観察して、一人一人で異なる自発性や創造性が引き出されるような環境を整える、つまりは自由促進型権力に徹するのが親の役割ということになる(註1)。
そして権力がどうしても発生してしまうのは親子だけではない。夫婦だってそうだ。夫婦においても、完全に平等ということはありえない、というか、そもそも何を持って平等の基準と見做すのかが、学校や職場と比べても曖昧であるために(経済力か、口数の多さか、仕事量か、趣味に費やす時間か)、お互いに自分こそ割りを食っていると思いやすい。それに夫婦・性愛関係というのは、どうしたって論理では割り切れず、独立した個人として平等で合理的な契約関係を結ぶということにはならない(註2)。
夫婦間の権力関係ということで言えば、問題になるのはやはり男女の不平等だろう。一般論として、現代日本社会には根強い男女格差が存在している。
そこで、結論としては親子間では親の権力が抑制される必要があり、夫婦間では夫が自分の力を手放して、より平等で民主的で「ワークショップ」的な家庭を作っていかねば、ということになる。
この結論の嘘臭さ、空疎さ、薄っぺらさを批判しても仕方がない。自由促進型権力といった考えの欺瞞を指摘しても同じだ。批判したところで、代わりに出てくるのは、さらにひどい時代遅れでリアリティのないヴィジョンに過ぎないからだ。
ごく平均的なリベラルで中産階級的なセンスの男性を想像してみる。彼はしつけと称して平然と子供を殴って悔いずにいることができるだろうか。子供と全く遊ぶことがなくてもいつまでも慕ってくれると確信できるだろうか。俺が稼ぐから、お前は家事に専念しろと妻に言えるだろうか。本当にそれだけ稼げるだろうか。
たぶん、できない。つまり、もう過去の家父長制には戻れない。
しかし彼は、気分が苛立って、妻子を怒鳴ってしまう時があるかもしれず、残業を理由に育児と家事の大半を妻に押し付けているかもしれず、そのことを後ろめたく思っているからこそ開き直るかもしれず、要は全てにおいて中途半端でみっともない。その中途半端ぶり、みっともなさにスポットライトを当て、さてどうするか、と問いかけるのが今注目されつつある男性論だとはひとまず言えるだろう。家庭を円滑に楽しいワークショップに変えられるほど、我々はスマートでも要領よくもない。
ここで、1980年代から90年代の文学のことを思い出してみたい。その頃の、特に女性作家の作品には、家庭を「ごっこ」的なもの、つまり演劇=playとみなす視線がしばしば見られたように思うのだ。例えば、干刈あがたの『ウホッホ探検隊』や富岡多恵子の諸作を思い浮かべているのだが、津島佑子でもいい。
津島の「黙市」は、子供を抱えたシングルマザーが、猫に父親の代わりをつとめてもらえないかと夢想する物語である。眠っている子供たちの枕元にそっと寄り添うだけでいい。それで子供たちは〈父〉の視線を感じて安心するはずだ、と。
津島は〈父〉という「大黒柱」とみなされていた存在を、ゆきずりの野良猫で代用しようとする。そこには家庭を一度解体し、異類も含めた他者たちによる「ごっこ遊び」(お芝居)として作り直そうという想像力がある。
しかしそれは当時の女性作家たちにある程度共有されていた想像力であるように感じる。例えば大島弓子における夫婦のあり方。
背景には第二波フェミニズムや核家族化の進行、戦前からのイエ制度の形骸化などがあるだろう。現在につながる家族の液状化はこの時期から始まっていたのだと思う。そこで、もっとも弱い立場にいた女性たちが、オルタナティヴな家族の姿を思い描いたとき、家族はごっこであってもいいのではないかと気づいたのではないか。
しかし現在から振り返ってみると、「ごっこ的想像力」は引き継がれなかった。むしろはっきり目に見えるようになったのは、未婚化と少子化だった。つまり人々が選択したのは、お芝居として父(夫)や母(妻)を演じることではなく、単純に家庭を作るのをやめることだった。
2000年前後の桐野夏生の作品などは、女を「演じる」という主題において、ごっこ的想像力に連なるかもしれないが、最新作『砂に埋もれる犬』で描かれるのは、同じ部屋に暮らしていても完全に解体しきった家族ともいえない家族である。
註1:ただ、学校でワークショップ化が進んでいるのだとしても、反対に家庭こそが学校化(教育現場化)しているといった見方もできそうだ。中学受験の流行は、塾と結びついて、家庭でこそ「勉強」しなければならないという焦りを生んでいる。親はただの親ではなく「よき教師」にならなければいけなくなっている。
註2:とはいえ、通常の共働き家庭であれば、今日の保育園のお迎えはどちらが何時に行って、誰がスーパーで食料を買ってくるか、学校のプリントはどちらが確認して必要事項を書き込むかなどなどをラインで何度もやりとりするというように、夫婦関係が絶えざる調整と交渉と契約と妥協のプロセスになっているのを実感しているはずである。それはオフィスで普段やっていることとほとんど変わりがない。つまり夫婦という親密圏がビジネスと地続きになってしまっている。
12月4日 渡辺健一郎「演劇教育の時代」を読む。
群像新人評論賞受賞作の渡辺健一郎「演劇教育の時代」を読んだ。3名の選考委員が高く評価するように、とても質が高く、アクチュアリティもあるように思えた。
「演劇教育の時代」というタイトルだけ見ると、演劇史か教育史の論文かと思ってしまいそうだが、主題となっているのは、自由を強制的に「教える」ことができるのか、という普遍的な問いである。簡単に論の筋立てを追ってみよう。
著者はまず今の教育現場に「演劇」がかなり広く入り込んでいると指摘する。知識を一方的に伝達するだけのいわゆる「詰め込み」教育の弊害を乗り越えるために演劇が注目されているからだという。子供たちが自発的に参加する「劇」は、アクティブラーニングやワークショップの流行と同等のものとして、主体的で創造的な教育実践として期待されているわけだ。
だが、と著者はいう。子供たちを自発的に参加させる、その「場」=環境は当然教育する側によって準備されている。そうしたあり方のことを、著者はフーコーの「規律訓練権力」やドゥルーズの「環境管理権力」と対比して「自由促進型権力」と呼ぶ。
この問題設定は興味深いと思う。例えばyoutubeを眺めていると、「誰もが“私らしく”いられる社会を」とか言った広告が流れてくる。多様性を尊重しましょうという意味なのだが、この“私らしさ”への指示、別言すれば、各人の夢や個性や能力を十全に開花させる“べき”だという命令こそが現在の支配的なイデオロギーなのだろう。それを「自由促進型権力」と呼んでもいいだろう。人は外的な枷から抜け出して、内面の必然性に従って生きるべきだ、すなわち自由になるべきだ、というわけだ。ここから起業の勧めだって引き出せそうである。
ここまできて、著者が問題にしているのが、学校カリキュラムの単なるディテールではなく、教育に内在する現在的問題なのだと明らかになる。教育において、教師と生徒の間にはどうしても権力差が生じる。教師は命じる側、伝える側、評価する側であり、生徒はその対象である。しかし現代はそうした権力関係を許さない。そのために両者が平場で輪になって平等に参加するようなワークショップが好まれる。「社会のワークショップ化」と著者は書いている。
僕も含め、教育機関に籍をおく人たちは、このワークショップ偏重の指摘には思わず苦笑いしてしまうのではないだろうか。教育のフラット化、それは避け難い。自分も若い頃体罰教師やアカハラ教員に遭遇したが、その時代に戻れと言われてもまっぴらである。民主化・平等化は時代の趨勢であり、必然なのだ。しかし、安易なワークショップ化がしばしば放任や介入しない言い訳になってしまうのも、教育現場にいればわかる。
ではこのワークショップ化と演劇教育はどう結びつくのか。
演劇(play)から上演という目的を取り去れば、それは文字通り遊び(play)になる。つまりそれ自体が目的となる。それ自体を目的とする行為、というのは伝統的な芸術の定義でもある。この遊びとしての芝居を通して、生徒たちは自発的に創造性やコミュニケーション能力を養うというのが演劇を推進する側の理論だ。遊び=芸術においては、一方的な指令と従属の代わりに、中動態が中心を占める。
著者はこのユートピア的な教育思想に、ランシエールの「不和」という概念をぶつけるのだが、個人的には結論近くのラクー=ラバルトが出てくるくだりにグッときた。自分も博士課程の頃、芸術思想論の文脈でラクー=ラバルトを一生懸命読んでいた時期があったので、なるほどと思わされた。
このラクー=ラバルトを介して、模倣という概念を持ち込む。模倣とは役者の仕事だが、教育にあてはめれば、教師と生徒が、無根拠なまま、教師と生徒を「演じる」ということになるだろう。教師と生徒の差異(権力)を抹消するのではなく、ある種の演技として維持すること。
ただ、最後に持ち出される教育を上演の上演として見る視点──つまり演技のメタ化──は、アクロバティックなようでいて、実はわりと穏当な結論であるようにも思われた。上演の上演とは、どのような劇もいずれ終幕をむかえ、役者は素の人間に戻るのだと意識しておくこと、雑駁にいってしまえば、卒業してしまえば、先生と生徒もただの他人同士になるということである。いつまでも人生の先生ぶってみたり、忠実な弟子らしく振る舞うのははしたない。それは誰もが知っている世間知ではないだろうか(註)。
このようにとてもおもしろい評論だったのだが、この主題は、演劇教育以外にもいろいろと適用できそうな気がする。しかし、長くなってしまったので続きはまた明日(たぶん……)。
註:そういえば、眞子さんの結婚を騒ぎ立てる連中が醜悪なのは、舞台から降りたといっている人間にいつまでも演技を要求し続けるからではないか。連中は現実をそのまま劇として見るリアリティ・ショー脳に陥っているのではないか。皇室こそ、演劇モデルでいろいろと分析できそうだ。
12月3日 荒木優太『転んでもいい主義のあゆみ』
昨日次のようなツイートをした。
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一連のツイートは以下
https://twitter.com/kurageru/status/1466324258590638080
著者は荒木優太という若手在野研究者(アカデミズに属することなく研究を続ける人のこと)。せっかくなので、もう少しこの本について書いてみようと思う。
この本には三つの魅力がある。
まず、「プラグマティズム」という思想についてざっくりとした感触がつかめること。試しにネット上の事典で調べてみると「認識の形而上学的な基礎づけを排し,その妥当性を行為の効果に求め,真理と価値の追求とを社会的協働の中に求めるところに特質がある」(マイペディア)なんて書いてある。意味不明ではないにしろ、なかなか具体的なイメージはわかない。
その点この本を読むと、要は走りながら考える、というか、アイデアを実地に試してみてダメだったら修正する、という感じの考え方なんだな、とわかる。こういう思想の内容というより、姿勢、あるいは態度みたいなものを掴んでおくのは大切だと思う。カントやハイデガーを読むのだって、思想の「姿勢」をざっくり掴んでおくと全然捗り方が違うのだ。もちろんそれはある種の「仮説形成」(これもプラグマティズムのキーワードのひとつ)で、その後時間をかけて難解なテクストに取り組まないとちゃんとした理解には至らないのだけど。
二つ目は、日本のプラグマティズムというあまり注目されない、マニアックとさえ言っていい系譜について知識が得られること。プラグマティズムはアメリカが本場であって、それが日本にどのように移植され、展開してきたかはあまり論じられてこなかった(と思う)。僕自身、近代日本の芸術思想史で博士号を取ったのだけど、田中王堂や田制佐重なんてぜーんぜん知りませんでした(不勉強なだけかも)。だから日本の思想史に興味がある人にはへえと思えるような話がたくさん見つかると思う。
そして三つ目、この本の最大の魅力は文体にある。ジョークやダジャレを交えつつ、どんどんどん先に進んでいく文体。そのために笑ったり苦笑したりしながら1日で読了して、ああ面白かった、という気持ちになれる。プラグマティズム的な意味で、お役立ち感が半端ないのだ。
ただここは好悪の別れるところでもある。そういうおちゃらけた文章が嫌いだという人はいるだろう。僕もたとえば栗原康の文章は鼻について苦手だ。
けれど、最近では思想書や哲学書でもセルフツッコミ満載の笑いながら読める文章が増えてきているのは確かだ。具体的には心理学者の東畑開人、科学哲学の戸田山和久、辺境ルポの高野秀行など。これらは、文章は軽いが、語られている内容は相応に高度である。つまりこれらは単に読者におもねっているのではなく、思考をどのように伝えたらいいかという現代的な模索なのだと思う。思想書のスタイル=文体がどのようであるべきかという実験の一部なのだ。
それらの著者と比べても、本書の文体のスピード感は随一である。
というわけで、興味がある方は手に取ってみてはいかがでしょうか。
12月2日
しばらく前から、週に一回、ボランティアで小中学生の学習支援をしている。夕方の6時半、ある団地の集会室を借りて、やってくる子供たちの勉強をみる。主催しているのはあるルポライターを中心としたグループで、メンバーには大学生からすでにリタイアした年配者までいる。自分も縁があってお手伝いすることになった。
学習支援が始まってまだ三ヶ月くらいだが、気がつけば生徒の半数以上が外国にルーツを持つ子供たちになっていた。ヴェトナムやラオスの子が多い。場所が(以前にもエッセイでも書いたように)国道16号線の外縁で、工場などが多い。さらに外国人の受け入れに関わる施設が近くの市にあったという歴史的経緯もあって、外国人の多い地域であるらしい。規模はよくわからないが、コミュニティがあり、そこで生まれ育った子供たちがきているのではないかと思う。
そういう子たちは見た目では判断がつかない。名簿に書いてもらった名前がカタカナなのをみて、こちらはようやく気がつく。子供だからしゃべったり笑ったり大変賑やかで、その話す様子を聞いていても外国にルーツがあるとはわからない。ただ一緒についてきたお母さんはカタコトだったりする。
小さな子供たちは親に言われてきているのかもしれないが、高学年くらいになるとかなり熱心で、長時間黙々と漢字ドリルに取り組んでいたりする。自分から勉強しにきているくらいだから意欲はあるのだ。ただしばらく勉強を見ていて気づくのだけど、漢字は書けてもその言葉の意味や用法をあまり知らなかったりする。家庭内で使用される言語が日本語でないせいなのだろうか。一見お喋りには不自由しないようでも、どこかにハンディはある。
マイノリティは透明な存在だ、とつくづく思う。すぐ近くに東南アジア系のルーツを持つ人がいても、見た目ではわからない。喋ってみてもわからない。さらに、それぞれの家庭が抱えている可能性の高い経済的困難──塾に行く余裕がない──だって外からは見えない。その人たちの存在に気づくことなく生活できる。自分だって、学習支援の場で実際に出会うまで、そんな風に意識したことはなかった。マイノリティは数が少ないからではなく、目に見えないからマイノリティなのではないだろうか。
学習支援の場から帰りながら、そう考えた。