この真夜中にしか書けない
働いてはいるけれど鬱病で3年くらいずっと通院しているし、今は生理のPMSで落ち込みが酷すぎて日付が変わる前からずっと泣いたり泣き止んだりを繰り返している。何が悲しくて、何が嫌なのかもよくわからない。ただとめどなく涙は出てくる。今は真夜中の3時半。本当はあと3時間半後に起きなければいけないのに。眠いはずなのに、眠れなくて。
この真夜中の、もうすぐ夜が明けようというひんやりとした空気のなかで、こうやって形の無い悲しみに向き合って、世界で自分だけが一人ぼっちになってしまったかのような気持ちになる。本当はそんなことなどない。ちょっとインターネットを覗いたら、ちょっと外に出たら。起きて動いている人なんてたくさんいる。それくらいわかっているけれど、この狭い部屋の中にいると、なぜか自分だけが起きていて、真夜中と明け方の狭間で浮かんでいたいと、そのほうが良いなと思いたくなってしまう。
今この3時半に抱えている形の無い悲しみは、まぎれもなく、誰のものではないわたしだけのものだった。それはわたしの目の前に静かにそびえている。その大きさと、なぜか手を伸ばしても掴めない不気味さに圧倒されて、尻込み、涙を浮かべたわたしを見下ろしている。ずっとそうだった。鬱になる前から、高校生のときも大学生のときも。今日みたいに眠れない真夜中にこいつは音もなくやってきて、静かに、静かに——。
このくらいの時間になると、高校生最後の合唱コンクールで歌った課題曲「そして夜が明ける」を思い出す。この曲に登場する「わたし」も、ねむれぬ真夜中にやってくる茫漠とした悲しみや儚さと出会う。歌詞の中で「わたし」はそれを「青春」と呼んでいた。きっと中高生に向けられた曲だから、そいつは仄暗い美しさをはらんだ「青春」という名をつけられているのだろう。
でも、わたしはもう28歳なので、今目の前にいるそれを「青春」と名づけるには、少し気恥ずかしい。28歳が眠れない真夜中に対峙する形の無い悲しみは、もう美しくなどない。鬱かもしれない。PMSかもしれない。将来への不安かもしれない。そんなことはわかっているけれど。
この3時半に(もう4時になりそう)対峙するこいつを……今世界でわたしとふたりだけになってしまったこいつを、「一言」で片付けてしまう大人にはどうしてもなりたくなくて。美しさ、とまではいかないまでも、まだら模様に鈍く光る色々なものを諦めたくなくて。なんて名前をつけたらいいのだろう、こいつに。
きっとそんなことを思っているから、こんな時間に泣きながら眠れないと嘆く人間になってしまったんだろうな。