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読書記録:ジョージ・オーウェル『一九八四年』

最初にひとつ断っておきたいのは、この本は以前より頭の中の《いつか読まなければならない本》リストに入っていて昨年末に購入していたのであって、世相から読みたいと思ったわけではないということとだ。

ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳『一九八四年〔新訳版〕』(ハヤカワepi文庫)。1949年に刊行されたディストピアSF小説だ。私が読んだのは2009年の新訳版。暗い物語なので精神的に読むのが辛く、3か月かけてゆっくりと読んだ。その間に現実の世界も危うくなろうとは。

1984年、世界は3つの超大国に統治され、それぞれが戦争したり同盟を結んだりを繰り返している。そのうちの1つオセアニアは共産主義・全体主義国家で、国民はテレスクリーンという機械や街中に仕掛けられているマイクで政府に監視されている。主人公は下っ端の役人として歴史を改ざんする仕事をしているが、あることをきっかけに体制への疑いを持ってしまう。


感想を書くにあたって、どの切り口からこの小説を考えるか悩んだ。あらゆる考察は出尽くしているだろう。

しかし読み終えてから様々な疑問がとめどなく浮かんできて、私の脳みそは忙しかった。ひとまず下記に箇条書きで列挙してみる。

・「テレスクリーン」による監視社会はスマホによって実現しうるか

・ビッグブラザーは最初期のオセアニアには確かに存在していたのか。多くの宗教と同じように崇める対象の実在は重要ではないのか。

・政府が言葉の意味を定義することはどんな危険を孕んでいるか

・語彙の多様性と自由な思考の結びつきについて

・オセアニアの国民と江戸時代の武士の類似点、特に命の軽さについて

・貧しさと愛国心を両立させるには戦争状態という理由が必須だろうか

・国民が自由を知らない世代だけになってしまった後、その国内から政府と戦う思想は発生しうるだろうか。

・例えばオセアニア国民の生活の質が一定程度向上したならば、自由でないことその1点のみを非難して政府が倒されることはありうるだろうか。


こういった疑問が浮かぶとしばらく考えを巡らせるが、やがて気が滅入り、頭から一度追い出してしまう。ニュースを見ては落ち込むこの時期に、ディストピアについて考え続けるのはしんどかった。今だからこそ深く考えるべきだと思うのに、心がブレーキをかけるのだ。

上記の箇条書きについてはいずれしっかり向き合いたい。色々な考察を読むのも面白いだろう。映画も見てみたい。

しかし、しばらくはディストピアが顕現しないことをひたすらに祈ろう。自分の心の弱さを自覚しながら。

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