読書記録:マーガレット・アトウッド『侍女の物語』
今年の始めに読んでいたディストピア小説、ジョージ・オーウェル『一九八四年』は私の脳みその一番暗い所で澱み続けていて、ふとした時にその陰鬱な世界にひっぱられそうになる。
もはや彼の地の戦争も停戦の兆しは見えず、触れるニュースはミクロな悲劇がフォーカスされたものばかりで、この安全な国の暖かい部屋でどのような感情を抱くべきなのかもわからない、戸惑いばかりが募る。
しかし思考から逃げるわけにはいかない。私は学ぶ必要があるし、先人が悲観的な未来を想像してくれているならば読むしかない。そういうわけで再びディストピア小説を手に取る。マーガレット・アトウッド 著・斎藤英治 訳『侍女の物語』(ハヤカワepi文庫)。
あらすじは最小限にとどめよう。キリスト教原理主義者が支配するようになった地域で、エリート層の男性に派遣される『侍女』である主人公。侍女は出産のための道具でしかなく、監視されていて自由は無い。これ以上のことは主人公の語りによって知ってもらいたい。次第に理解していく恐怖感がこの小説の醍醐味だと思う。
『一九八四年』の主人公と共通しているのは、自分たちを支配している権力について分からないことが多いし、内心では抵抗したいと思っているが、死にたくないというそれだけの理由で従順に振る舞っているところだと思う。それを弱いと責められるだろうか。正義感や倫理観を優先して、自分の命を投げ出すことができるだろうか。誰もが逃げられるならば逃げたいだろう。しかし気づいたときには囚われている。言葉ひとつ発しただけで死ぬかもしれない、そういう世界になってしまっている。死にたくないならば従うしかない。それは当然の、人間としての適応力だと思う。
この小説のディストピアは女性へのあらゆる抑圧の種をすべて発芽させ大きく育てたような世界だ。しかし私たちの生きる世界にもそういった『性別を理由にした不自由』や『女性としての役割の強制』は拒否できない状態でまだそこにある。長男の嫁は男子を産まなければならないという思想によって、未だに東京の中心で苦しんでいるひとがいる。髪を隠さなければならないという宗教によって警察に殺された少女、学校から集団で誘拐された少女たち、堕胎できる州までの旅費を計算するひと、毎日乗る電車である日突然暴力を受けるひと。そんな抑圧や強制をすべて集めて濃縮したような本の中の世界は、現実と地続きのところにある気がする。例えば少子化がのっぴきならない状況まで『悪化』したときに、私たちの社会は出産を『義務』であるかのように誘導されないだろうか?それは確実に誰かにとってはディストピアであり、そのひとつの発芽によって連鎖的に自由が制限されていくかもしれない。
この小説には続編の『誓願』(早川書房)があり、こちらは侍女の物語から15年後の世界を描いているらしい。続編の主人公は侍女を指導する役割をもつ『小母』のひとりだそうだ。なるほど、小母にとってはあの世界はディストピアではなくユートピアなのだろうか、それとも何か苦悩があるのだろうか。文庫化されたら読もうかな。
映画化やドラマ化もされているらしい。映像映えしそうなシーンが多いなぁと読みながら思っていた。アメリカのドラマはシリーズ6まで制作されているとか。好評なのだなぁ。海外ドラマは見る習慣がないから疎いのだけれど、頭の隅に置いておこう。
ディストピア小説の有名どころ2冊を読んでわかったのは、精神的に疲れるから1年に1冊くらいが限界かもしれないということだ。しかし学ぶことは多いし、現実と対比して気づくことも多い。読まねばならないという義務感もあるし、来年も1冊を目標に何か読もうと思う。
さて、年の瀬ですね。
少し生活に変化があり、年末年始も相まって筆が遅くなるばかりです。年内にもうひとつくらい何か書けると良いのですが。
ここのところ大根が安いので日曜日に1本買って半分は鶏手羽元と煮物にし、もう半分はサラダにしました。私の作る大根サラダはいつも同じ味。大根半分を千切りにしたら塩揉みして水分をよく絞り、カニカマ5本を割いたものとマヨネーズで和えるだけ。美味しくてモリモリ食べるので、ふたりで2日分です。水分をよく絞るのがポイント。
北国の暴風雪は大変そうです。ほどほどに過ぎ去ってくれると良いなぁと思いつつ雨雲レーダーを眺めています。大根が安いのもお天気が安定していたおかげなのでしょう。何でも値上がりしている昨今、旬の野菜を安く手に入れられるのは嬉しい反面、農家のかたはこのお値段で大丈夫なのだろうかと心配になったり。私にできるのはとにかく食べることだけ。来週も1本買っちゃおうかなぁ。。