久遠堂の製作覚書③「イルイラナイ・スキキライ」
私のボードゲームの生まれ方として、
①まずシステムが生まれ、それに合わせてビジュアルをこじつける
②まずビジュアルが浮かび、そこにうまいことシステムを落とし込む
があり、稀に
③システム・ビジュアルがセットで生まれ並行して育つ
という変則パターンがあるのだが、
どんなに「今作はめっちゃ良い出来なのでは」と思っても、全てにおいて一回ブチ壊れるタイミングがある。初心者女子にテストプレイをしてもらった時だ。
遊ぶために何をどうすればいいのか、さっぱり分からない状態の人間に、いきなりゲームを出して「さあ遊べ」と言っても遊べるわけがないので、もちろん説明をするわけだが、説明を受けている時点でもう顔に「???」が浮かんでいる。比喩とかじゃなくマジでそういう顔する。もう既に私にはここで5点くらいダメージが入る。
そして、どうにか一回遊んでみてから、何が分からなかったか、どこが面白くなかったかを挙げてもらうと、彼女たちが「分かりづらい」「面白くない」と言うポイントは悉く、私が「このシステムは良くできた」とか「ここ面白いギミックじゃろ」と思ってる部分だったりするのだ。
10点くらいダメージを食らいながら、彼女たちの「分からない、難しい、面白くない、これ嫌い」の部分を削り、もう一回遊んでもらう。
「うん、これなら分かりやすいし面白いから好き」
つうこんのいちげき!!(ぐはっ)
このnoteの読者の方にはご存知の方もござりましょうが、私は初心者ではないし、女子かと言われると、まあ生物学上と体裁的には女性を取り繕ってはいるが、中身の感性はむしろオッサンである。それもボドゲ歴は30年、ゲムマ参戦歴は12年、ゴリゴリの重ゲーが大好きなオッサンである。
そんな私が好きと感じるゴリゴリのギミックやシステムが、ボドゲを知らないキラキラ女子にいきなり理解されるわけがないのだ。そらそうだ。いきなりそんなの遊ばせるのが悪い。
このように、頑張って作った自己満足てんこ盛りの状態を削って削って、彼女たちの感じた「ここが好き」「これが面白かった」だけを残したものが久遠堂の作品として出るわけだが、ぶっちゃけ完全にノットフォーミーではある。
それでも、彼女たちが楽しんで遊んでくれるなら、それこそが私の作りたいもので、削って削って残ったその部分が私の作品の芯であり、本質なのかも知れない……と、最近はそう思ってもいる。
ところで。
「自分が面白いと思って作るものこそ最高の作品である」みたいな論調は、いつの時代にもある。そういうのを見聞きする度に、私は最高の作品を作ってないと言われている気になって、そんなことないもん……って毎回ちょっとショボくれる。