わたしという誰かの演劇_005
わたしのいるところで、演劇がはじまる。
わたし 筋肉ってほんとうに裏切らないんですかね、裏切ると思うんですよわたしは、裏切ってくれたらいいなって思ってて、なんでかっていうとやっぱり裏切りって大事ですよ、裏切りのないストーリーなんて退屈じゃないですか、思った通りに全部進んだらそんなのって見てられないですよね、見てられなくてもいいかもしれないですね、筋肉は、別に見てる必要ないか、見てる必要ないくらいのほうが生活のためにはいいかもしれないですね、生活はストーリーじゃないし、裏切りって病気とかだったら困りますしね、でも別に、病気の側は裏切りとか思ってないですよね、当然のなりゆきって感じで思ってるんじゃないですかね、病気は自分のこと病気とも思ってないですし、酔っ払いは自分のこと酔ってないって言いますし、おんなじかどうかわかんないですけど、からだが終わったら病気も一緒に終わるんですよ、なのによく精を出しますよね、って、ねぎらってる場合じゃないんですよ、わたしたちからしてみれば、わたしたち、わたしたちって誰と誰と誰、誰と誰と誰と誰、筋肉に裏切られるんじゃないかっていつもビクビクしているわたしたち、でも心のどこかではいつか裏切ってくれたらとも思いながら筋トレしてる、そんなわたしたち、誰、そんなやついるの、いるの、いないの、どっちなんだい、わたしの死んでるほうの祖父はですね、いきなり死んでるひとの話して恐縮ですけど、最期は治らないタイプの病気になって死んだんですね、治るタイプの病気と治らないタイプの病気ってありますよね、あくまで現代医療においてですけど、未来の医療では全部治るといいですね、って、全部って無理か、いたちごっこか、「いたちごっこ」ってなに、誰が考案したんだよそんな遊び、いたちか、いたちたちか、いや「ごっこ」なんだからわたしたちか、いたちたちじゃなくて、わたしたちって誰と誰と誰、誰と誰と誰と誰、祖父ですけどね、死んでるほうの、70ちょっとで亡くなったんですけど、「亡くなってる」って言い換えましたよ、「死んでる」だと身も蓋もなさすぎる気がしてきたんで、で、思ったんです、辻褄って合うようになってんのかなぁって、祖父は70ちょっとだったんですけど、亡くなったときの見た目、125でした、人間って125まで生きるけど、実際には生きられなくて、病気とかするし、70でも亡くなるとき125に合わせにきてんのかなぁって、合わせにいってんのかなぁ、からだ、からだって誰のものだったんだろう、誰のっていうか、からだって最期、宇宙の結び目がひとつ、ほどけるみたいにして、また戻ってく、あるべき寸法に、広げた布きれのどこかに彼がいたんだって、手ざわりじゃあもうわかんないけど、わたしたちは知ってる、わたしたちって、誰と誰と誰と誰、誰と、
また明日。
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