note版 哲学ダイアグノーシス 第二十四号 ルクレティウス
<note版>
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<哲学ダイアグノーシス>
第二十四号 ルクレティウス
快楽主義とは?
今回はまず、ある詩人の残したことばをお読みいただきましょう。
「人類は絶えずいたずらに、また、無駄にあくせくし、空疎なる心労に生命を費やしているが、明らかにその理由は、所有するということにはいかなる限度があるかを知らず、また、真の快楽はいかなる程度まで増大し得るかの範囲に全く無智であるがためである。」
「財宝も、高貴な生まれも、また、名家の誉れも、われわれの肉体にとってすら何の益にもならない以上、われわれの精神にとってもまた利するところは全くなしと断ぜざるをえない。」
「誰でも真の理性をもって人生の生活方針を定めようとするならば、乏しさに甘んじて、心を平静に生活することこそ人間にとってこの上もない莫大な富なのである。」
これらは、古代ローマの詩人であり哲学者であった「快楽主義者」、ルクレティウス(ティトゥス・ルクレティウス・カルス Titus Lucretius Carus、BC99年頃~55年)の言葉です。
ところで皆さんは「快楽主義」と聞いて、どのようなイメージを抱かれるでしょうか? 欲望に忠実であり、倫理だの道徳だのといったものにはおかまいなしに欲望を満たすことによって快楽を得ることを喜びとする、そういった生き方をイメージなさる方が多いのではないでしょうか。西洋の長い歴史の中でも古くからそのようにとらえられてきました。しかし、いかがでしょう? 最初にご紹介したルクレティウスのことばからは、このようなイメージとはずいぶんと違った印象を受けるのではないでしょうか。ルクレティウスに限りません。哲学の歴史において快楽主義は、そもそもこういったイメージとはずいぶんと違った考え方だったのです。
哲学の歴史における快楽主義とは、古代ギリシアのいわゆるヘレニズム期の哲学者・エピクロス(Epikouros、BC 341年~270年)によって唱えられた考え方です。エピクロスの名にちなんで現代の英語でも、快楽主義者をエピキュリアン(epicurean)、快楽主義をエピキュリアニズム(epicureanism)と呼びますが、そもそもこれらは「エピクロスのような人」だとか「エピクロスのような考え方」という意味なのであり、そこには「快楽」という意味はないわけです。ですから今後、今回のお話の中でエピクロスの考え方を快楽主義とは呼ばず、「エピクロス主義」と呼ぶことにします。
今回ご紹介するルクレティウスもエピクロスの考え方を受けつぐエピクロス主義者でした。そこでルクレティウスのお話をする前にエピクロスの考え方について、お話しましょう。
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