昭和であった3 〜私の昭和ビート(その1)〜
私の父はサラリーマンだったが、戦前はプロのミュージシャンだった。
ジャズやハワイアンのバンドを組み、ギターリストとして活躍していた。
当時洋楽のブームは日本ではまだまだ始まったばかりで、プロの舞台は主に大学生に託されていた時代のことだ。
なので我が家にはギターがあり、電畜があり、古いレコードキャビネットには100点ほどのSPレコードが入っていた。
父の戦前のコレクションと、戦後に買い足したものもあった。
SP盤レコードとは天然樹脂で作られた初期のレコード。
ビニールよりも脆いので、ノイズも多く、取り扱いに気を付けないとヒビが入ったり、割れることもある。
サイズは直径10インチ、25cmくらいで、回転数は78回転/分と相当の高速回転。
片面の収録再生尺はせいぜい5分程度だったので、基本はシングル盤である。
現在我々が知る30cmLP、17cmEPのビニール盤が誕生したのが1949年(昭和24年)なので、その交代時期も含め父が持っていたレコードは殆どがSP盤だった。
父曰く… 「戦後俺が復員するまでに、随分売り食いされちゃったんだ。この10倍以上はあったんだぞ」。
父は南方戦線の生き残り、終戦から復員までには1年以上の歳月があったらしい。その間、祖母や叔母たちが売り食いを続けていたからだ。
終戦でそれまで封印されていた洋楽は一気に解禁となり、クラシックやジャズのレコードは希少価値で飛ぶように高値で売れ、父が戦前収集したレコードは残された家族たちの重要な糧となったのだ。
昭和30年代、世の人々はどの様に音楽に親しんでいたのか…
その音源の主流はラジオである。
『昭和であった1』でも記したように当時のラジオ番組表を見ると、各局頻繁に歌謡番組が放送されている。
電気蓄音機が普及し始めたのは、敗戦からの復興が少し進んだまさに昭和30年代のこと。
それでも普及率は低く、好きな時に好きな音楽が聴けるレコード鑑賞は庶民にとってはまだまだ贅沢な趣味だった。
そんな時代の中にあって、音楽好きの私には幸運だったと言える。
我が家にはいつも音楽が溢れていたのだ。
その多くは電畜から流れる父の持つレコード。
当時レコードは高価だったので、我々子供達はレコードを直接扱うことは禁じられていた。
父は私たちに童謡のアルバムレコードを与え、電畜を扱う時はそれ以外は掛けてはいけないと指導された。
ただし、そこは子供… 特に私は軽快なビート感のジャズにとても惹かれていたので、両親の目を盗んでは父のレコードを密かに掛けては楽しんでいた。
まずはそのいくつかを紹介しよう。
『グレン・ミラー』
太平洋戦争勃発の直前から、世界には一大ダンスブームが沸き起こっていた。
フレッド・アステアの登場により、ダンス音楽はフォックストロットやチャチャチャ、ジルバといったよりアップテンポで洗練されたスタイルが流行し、日本でもダンスホール文化が街を席巻した。
戦中、敵性音楽として禁止されていたダンスミュージックは終戦後一気に街に溢れ出し、合わせて各地でダンスホールも復活する。
実際、父は復員後生き残った戦前の仲間に請われて週末ダンスホールの演奏を手伝い、母は親戚が経営するダンスホールでダンサーのアルバイトをしていた時期があり、それが縁で結ばれたのだ。
私も狭い我が家で2人がレコードの曲に合わせて踊る姿を度々目撃している。
子供としてはちょっと恥ずかしく、どういう顔をして見ていれば良いのか… ひたすらモジモジしていた記憶がある。
ベニー・グッドマンやアーティー・ショウ、トミー・ドーシー…そしてその中でも頭抜けて洗練されていたのがグレン・ミラーだった。
私もグレン・ミラーの各楽曲が大のお気に入りで、幼稚園の頃には殆どの楽曲のフレーズを暗記していた。
余談だが、小学校に上がった時、朝礼や催事の集団移動の時、行進曲『アメリカン パトロール』が頻繁にかかっていた。
私はこの曲はグレン・ミラーのダンスバージョンしか聞いたことがなかったので、物凄い違和感を感じていたのをよく覚えている。
『レス・ポール』
ソリッドエレキギターの生みの親で、多重録音技術の草案者でありエンジニアでもあったギタリスト。
当時のジャズギターはコードを刻むリズム楽器的な役割が主流だったが、ピックアップマイクとアンプリファイアの登場でソロ楽器の役割を担うことになる。
つまり戦中はエレキギターの創世記だったのだ。
その創世記を担ったのがレス・ポールと戦中に早逝した天才ジャズギターリスト、チャーリー・クリスチャン。
父は盛んにチャーリー・クリスチャンを勧めたが、子供の私にはその先進性やビバップの味はまだ理解できない。
それよりも軽やかなテンポで速弾きを存分に披露するレス・ポールのテクニックに魅了された。
特に好きだったのが名曲『キャラバン』。
ちなみにこの曲はその後1960年代のエレキブームの時代にもベンチャーズのナンバーで大ヒットした。
『ビル・ヘイリー&ザ・コメッツ』
ビル・ヘイリーはロックンロールの創始者と言われている。
元々ヒル・ビリーと呼ばれたウエスタン音楽のギターリストで歌手。
当時白人社会の中ではタブーとされていた黒人音楽、リズム&ブルースを取り入れ、シャッフル系のロックビートを生み出す。
世界的大ヒットとなった『ロック・アラウンド・ザ・クロック』はロックンロール文化の創始となり、ヒル・ビリーから生まれたこのジャンルはロカビリーと呼ばれ、日本でも一大ブームとなる。
我が家にあったのはこの『ロック・アラウンド・ザ・クロック』ともう1つの大ヒット曲『シェイク・ラトル&ロール』のカップリングSP。
もちろん、世のブームを知って父が買ってきたレコード。
父は間奏のギターソロを聴き取って自分のピックギターで練習していた。https://www.youtube.com/watch?v=zju6KbP_1xY
電畜の電源を入れると、私は毎回まず真っ先にこのレコードをターンテーブルに載せた大好きな1枚だった。
私にとってのロックの第1ページとなったレコードだ。
『ビング・クロスビー』
ビング・クロスビーはご周知の通り1930年代に一斉を風靡したシンガーである。
つまり父の青春期を代表するシンガー。
その甘く優しくムーディーな歌声は、数々のダンスミュージックと同じ様に、我が家の空気を創り上げていた。
子供の私にとっては日常のBGM、環境音楽だった。
アルバムもあった。
因みにその後の30cmLPはアルバムと呼ばれるが、それはSPレコードの時代には何枚ものレコードをアルバムに纏めていたことに由来しているのだ。
『雪村いづみ』
天才ジャズシンガーとして彗星のように出現したまだ10代の少女…
我が家にあったのはそのデビュー当時のヒット曲『チャチャチャは素晴らしい』のSP。
私が大好きだったのは、そのカップリング曲『セブンティーン』。https://www.youtube.com/watch?v=VjBeFAmb2yg&list=PLhBnqGRkbEyCclXV4N1f-mL9FoQEibfN3&index=13
初めて針を落とした時、その歌唱力の凄さにぶったまげた!
『こんな人が日本にいるんだ〜』
やがて、テレビの時代に入ると彼女は頻繁に画面に登場する様になり、お茶の間の人気者となって、美空ひばり、江利チエミと共に時代を代表する三人娘として扱われる様になる。
当時の三人娘といえばこの三人…
私にとっては『この人だけは別格なんだけどな〜』となかなか納得できなかった。
『アーサー・キット』
不思議な不思議な女性歌手…
何処の歌手なのか、何処の国の人なのか、何者なのか、見当もつかない…
実態はアメリカの黒人歌手で女優でもある。
我が家にあったレコードはフランス語と英語が入り混じった『セ・シ・ボン』とトルコ語の『ウシュクダラ』、日本語混じりの『証城寺の狸囃子』…
その表現力といい、パンチ力といい、容姿といい、想像を超える存在感は子供の私の心臓を鷲掴みしたのである。
幼年時代から少年時代へ…
私はやがて我が家の電畜、レコードキャビネットから、自分のラジオへ、テレビの時代へ、レコードも購入し易いドーナツ盤へ…その度に昭和のビートを渡り歩いてゆく。
次回は『私の昭和ビート(その2)』として少年時代の次の進展を紹介することにしよう。
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