川崎クニハル

映像演出家・脚本家・ライター Office scene代表 '80年代より多くのTV番組・CF・PR映像を手掛け、近年は本業の演出業の一方、東京の自宅オフィスと南阿蘇のアトリエを往き来しながら執筆を続ける。 『双葉荘の友人』で第8回WOWOWシナリオ大賞受賞(原作名『双葉荘』)

川崎クニハル

映像演出家・脚本家・ライター Office scene代表 '80年代より多くのTV番組・CF・PR映像を手掛け、近年は本業の演出業の一方、東京の自宅オフィスと南阿蘇のアトリエを往き来しながら執筆を続ける。 『双葉荘の友人』で第8回WOWOWシナリオ大賞受賞(原作名『双葉荘』)

マガジン

  • カワクニの おいしいエッセイ集

    エッセイの中から”食べ物”テーマのものだけ集めてマガジンにまとめました。

  • エッセイ集『昭和であった』

    昭和30年代に少年期を過ごした私が心に刻んだ昭和を象徴する様々な断片... 思いつくままジャンルごとに整理し、シリーズエッセイとして書き下ろしていきます。 昭和という時代に興味のある方に向け、そこにある心情や時代の匂いをお届けします。

  • エッセイ コラム など...

    エッセイやコラムなどをこちらのマガジンにまとめてあります。 食関連のエッセイは『カワクニ美味しいエッセイ集』に、また『山小屋滞在録』も別のマガジンにまとめています。 [ 表紙イラスト:カワツナツコ ]

  • 実録コラム 山小屋滞在録 まとめマガジン

    南阿蘇のアトリエ・山小屋の滞在録を随時アップしています。 滞在期間は2週間から1ヶ月くらい... 東京の自宅・オフィスを離れ年に数回訪れています。 都度の発見や出来事などをコラムにまとめています。

  • 週刊連載長編小説『私がわたしである理由』まとめマガジン

    太平洋戦争末期の東京を舞台にした、長編ファンタジー小説です。

最近の記事

  • 固定された記事

はじめまして..

まずは自己紹介です.. プロフィールにも書きましたが生業は映像の演出、TV番組や番組タイトル、CMやPR映像など、長く幅広くやってきました。 十数年前からコンテンツの構成作家や脚本、広報誌への執筆など、書く事にも重心を傾けつつあります。 東京(自宅オフィス)と九州(南阿蘇の山小屋)を行ったり来たりしつつ、いくつかの小説も書き溜めています。 書き溜めた作品は周囲の友人たちに読ませて、楽しんで貰っていましたが、そのうちの一作『双葉荘』を数年前勧められるままに脚本に書き直しWO

    • 昭和であった17 〜ご馳走様!夕食編 1 〜

      さて、いよいよ昭和の時代の我が家のメインディッシュの話… 夕食のシェフはもちろん母である。 母のことをもう少し詳しく説明しておこう。 商家の長女として蝶よ花よと家事一切を手伝うこともなく甘やかされて我儘放題に育ち、母親(私の祖母)は店を守るに忙しく、父親は放蕩の挙句母が子供の内に早逝。 その為父と結婚した時には米を炊く方法も知らなかった… 戦災で実家の店は消失し、肝心の後ろ盾も失ってしまう。 まあ、女性教育に煩い当時としては珍しい生い立ちである。 しかもダンスホールで知り合

      • 昭和であった16 〜ご馳走様!昼食間食編 〜

        今も昔も子供の昼食と言えば学校給食である。 私の通っていた品川の小学校は区立。 環状6号線・山手通り沿いにあり、古くからの品川宿の下町と御殿山に続く山手の丁度境にあった。 なので、学童たちは様々な環境地区から集められていた。 我々山手側のサラリーマン家庭は全般的に比較的裕福な地区で、下町の商店の子供たちも日銭に困らない恵まれた家庭が多かった。 それに比べ南側の職人地区、さらには東の海岸側、埋立地付近には朝鮮戦争からの引き揚げ集落もあり、今では考えられないような貧困家庭も珍し

        • 昭和であった15 〜ご馳走様!朝食編 〜

          我が家は典型的な昭和のサラリーマン家庭である。 だが、振り返ってみるとその食生活は当時としては比較的贅沢で、同じ社宅の家庭とは少し異なっていたと思う。 それは父親の生い立ちに関わっている。 父は我々と違って恐ろしく育ちが良い。 戦前の財閥、男爵家の長男だった。 それが、徴兵で南方戦線に送られ、離れ小島に取り残され、食うや食わずの餓死寸前の状況を潜り抜けてきた。 戦後復員してみると、財閥解体で資産は全て没収されてしまっていた。 そして、生きていく為、勤め人となったという経緯であ

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        はじめまして..

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        • エッセイ集『昭和であった』
          18本
        • カワクニの おいしいエッセイ集
          22本
        • エッセイ コラム など...
          27本
        • 実録コラム 山小屋滞在録 まとめマガジン
          15本
        • 週刊連載長編小説『私がわたしである理由』まとめマガジン
          24本
        • 連載長編小説『仙の道』全編+あとがきまとめマガジン
          31本

        記事

          昭和であった14 〜昭和30年代、子供飲料事情!〜

          先日聞いた話だが、最近の日本の子供は『水』を好まないらしい。 何故なら何の味もしないから… どうせペットボトルの水を買うのだったら、スポーツドリンクやジュースなどを選んでしまうという風潮が長く続いたからなのだろうか。 飲料水にお金を払う…実は私にはあまり馴染まない… 今ではもう中年世代となっている年下の世代のアーティストやクリエーターたちとの付き合いも多いが、彼らですら圧倒的に水道水を飲まない世代だ。 ペットボトルやウォーターサーバーの水しか飲まない人が多い。 はて?...

          昭和であった14 〜昭和30年代、子供飲料事情!〜

          昭和であった13 〜やっぱ、夏はアイス!〜

          昭和中期、少年時代の『美味しい』について語ってきた。 カテゴリー分けて掲載してきたが、今回の思い出情報はちょっと季節を逸してしまった。 もうすっかり肌寒くなって、すぐ傍に『冬』が迫っているのだが、当初から予定していたのでそのまま押し切ってこのジャンルの話をしようと思う。 季節外れの話題…ご容赦願いたい。 夏の『アイス』の思い出である。 私の子供時代の東京の夏は、もちろん温暖化の進む現在よりもずっと猛暑日は少なく過ごしやすかった。 無舗装路や土の庭も多く、夕立が多くて朝夕は過

          昭和であった13 〜やっぱ、夏はアイス!〜

          尾山台は美味しいよ!

          末期の膵臓癌が発見され、余命わずかの宣告を受けたのは一昨年の暮れのこと。 以来抗がん治療を受けながらも毎朝起きる度に「あれ?まだ生きてるぞ…」と思い続け早1年と11ヶ月が経つ。 医者は奇跡だと言うが、最近は自分が『死』に向かっている気がしない。 体調はまずまずだし、抗がん剤の副作用も手足の痺れと脱毛以外さして深刻なものは何もない。 決して信心深い訳でもないが、最近では『これはやっぱ神に感謝だな〜』とつくづく思う。 食欲もある。 当初20kgも落ちた体重も5、6kgは戻して、若

          尾山台は美味しいよ!

          昭和であった12 〜おやつおやつ!2〜

          さてさて、私の子供時代の記憶の中の『おやつ』について続きの話を続けよう。 前回も書いたが、昭和30年代の子供たちは私も含め全体的に糖分不足の傾向にあったと思う。 私の娘や息子が小さい頃、今ひとつ甘いものに興味を示さなかったのを見て、『子供のクセに何で甘いものが欲しくないの?』と、理解できなかったり、また羨ましくもあった。 兎にも角にも当時は『甘い』は『美味しい』という法則が完全に成立していたのだ。 まずはキャンディーの類から話を始めよう… 『ライオンバターボール』 ライオ

          昭和であった12 〜おやつおやつ!2〜

          昭和であった11 〜おやつおやつ!1〜

          子供時代の昭和30年代を思い返すと、世の中はまだ栄養事情が大分悪かった様に思う。 体現的には砂糖がそれ程不足していたとは思わなかったが、いつも甘いものが欲しかったので、今よりも砂糖がずっと高価だったのだろう。 親の目を盗んでこっそりジャムや白糖を舐めて母親から怒られた記憶もあるので、もしかすると子供には糖分が不足していたのかも知れない。 それでも戸棚の缶容器にはささやかな『おやつ』がいつも用意されていたし、僅かながら買い食いのお小遣いも持たせてくれていた。 一方世の中にはチク

          昭和であった11 〜おやつおやつ!1〜

          飛騨・諏訪ぶらり旅...

          抗がん治療は毎週1回およそ2時間弱の点滴を受けている。 それを3週続けて1週休みとなる。 で、今週は休みの週。 連休最終日からは何も予定がなかったし体調も良かったので、家内に「どっか行きたい所はないの?」と尋ねたところ、飛騨高山で彼女の好きな落合陽一氏のインスタレーション展示と彼が進める神道のイベントがあるとのこと… 「でも、ちょっと遠いわよねえ…本当は行きたかったんだけど…」と、遠慮がちに言う。 「いいよ。体調もいいし、天気も良さそうだし、ドライブもしたいし、行ってみようか

          飛騨・諏訪ぶらり旅...

          昭和であった10 〜遊びと道具と宝物 2〜

          いつだったか、息子が小学生の時、東京に大雪が降った。 どんどん白くなる自宅オフィスの窓の外を眺めながら、子供の頃每冬に1、2度東京に訪れる大雪のことを思い出していた。 校庭が一面真っ白な雪に覆われる… 「よしっ!今日は授業は中止にして雪合戦だ!みんな校庭に出ろっ!」担任の教師が笑顔で号令を掛け、生徒たちは歓声を上げて校舎を飛び出す…とても楽しい1日となる。 我々は放課後までたっぷり雪遊びを許されるのだ。 さぞかし息子たちも喜んでいるのだろうと想像していた。 ところが、息子は

          昭和であった10 〜遊びと道具と宝物 2〜

          昭和であった9 〜遊びと道具と宝物 1〜

          結婚して早25年以上が経つが、実は今の家内とは3回目の結婚。 結婚したのは25年前、息子が産まれた時には私はもう40代の半ば過ぎとなっていた。 その頃は忙しかった仕事も少し落ち着き、両親の介護も少しづつ始まっていたので、あまり長期の撮影は避け、仕事場も自宅兼オフィスとなっていたので息子の成長は世の父親以上にきっちり見守ることが出来た。 まあ、同性ということもあるのだろうが、息子の子供時代と自分の子供時代の記憶を比較して、羨ましく思うことも多かった。 そのギャップは半世紀近くも

          昭和であった9 〜遊びと道具と宝物 1〜

          昭和であった8 〜特筆したい2つの番組〜

          これまで昭和40年台初頭までの間に私の心に刻まれた昭和のテレビ番組を紹介してきた。 確か、私が中学生の最後の頃だったと思う、我が家は改築され私と兄にはそれぞれに部屋が与えられることになる。 それまで子供部屋に置かれていたソニーのポータブルテレビは私が貰い受けることになり、私の部屋の勉強(?)デスク上には常に自由に観ることが出来るテレビが置かれた。 この頃には居間やダイニングにはカラーテレビが設置されていたので、普段の番組は家族と一緒にそれを観ていたが、夜の深い時間は自分の白黒

          昭和であった8 〜特筆したい2つの番組〜

          山小屋滞在録(14) 〜井戸ポンプ復旧 編〜

          東京目黒の自宅建て替えは概ね内装を残すばかりとなり、諸々ややこしい手続きや打ち合わせも概ね片付き、来年1月末の完成を待つばかりとなった。 そんな残暑の折、今度はかねて相談していた熊本の業者さんから連絡があり、ここ数年壊れたまま隣家からの貰い水に甘んじていた山小屋の井戸ポンプの入れ替え工事予定が決まったとのこと。 10月初日からの工事になる。 急遽主治医と相談して、抗がん治療のスケジュールに隙間を作って貰い、9月の28日に家内と東京を出発することにした。 今回往路は途中京都に

          山小屋滞在録(14) 〜井戸ポンプ復旧 編〜

          昭和であった7〜そしてテレビは文化となった〜

          私が小学校の高学年になった頃なので、昭和37年頃からのこと… 当時のことを振り返ってみると、私は月刊や週刊で発刊される漫画雑誌のストーリー漫画に夢中で、かつ海外から続々と到来する音楽や様々なテレビ映像に心を奪われていた。 大人たちにもレジャーや娯楽への関心が広まり、日本の高度成長はいよいよ欧米先進国の背中が見え始め、国民誰もが未来への夢に現実感を感じ始めた頃である。 SFが新しい文化として流行し始め、私は常に非日常の妄想に胸を膨らませ続けていた。 日本のテレビ業界は間違いな

          昭和であった7〜そしてテレビは文化となった〜

          昭和であった6 〜テレビ普及期の番組たち

          昭和34年… その年の4月に皇太子殿下のご成婚があり、その式典の中継の全国放送を機にテレビの普及が全国に広まり始める。 とは言っても昭和34年のテレビ普及率はまだ20%台。 ただし、日々右肩上がりの経済成長に伴い消費者の月賦分割払いが広がり、家電製品はどんどん売れ行きを伸ばし、それに即して価格的にも手に入り易いものになっていく。 翌年からはテレビのカラー放送が徐々に始まり、5年後の東京オリンピック開催に向けて、テレビの普及は急ピッチに進んでゆくこととなる。 それに合わせ、各局

          昭和であった6 〜テレビ普及期の番組たち