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昭和であった17 〜ご馳走様!夕食編 1 〜

さて、いよいよ昭和の時代の我が家のメインディッシュの話…
夕食のシェフはもちろん母である。
母のことをもう少し詳しく説明しておこう。

商家の長女として蝶よ花よと家事一切を手伝うこともなく甘やかされて我儘放題に育ち、母親(私の祖母)は店を守るに忙しく、父親は放蕩の挙句母が子供の内に早逝。
その為父と結婚した時には米を炊く方法も知らなかった…
戦災で実家の店は消失し、肝心の後ろ盾も失ってしまう。
まあ、女性教育に煩い当時としては珍しい生い立ちである。
しかもダンスホールで知り合った父親は元華族、父の母親は士族出身の旧軍幹部の娘。
商家からの嫁など絶対に受け入れられず、父は当時勤め始めた会社が北海道に営業拠点を新設する為のスタッフを社内募集したのをきっかけに挙手。
結果私の両親は駆け落ち同然に出向先の札幌で所帯を持った。
なので、当然母に家事を教える同居家族は父以外おらず、かろうじて父や近隣のご近所さんから少しずつ料理を覚えていった。

そして晩年に分かった事だが、実は母はその生い立ちのせいか食糧難の時代を潜り抜けてきたくせに食については非常に好き嫌いが多かった。
好きなものは揚げ物と酢の物くらいで、煮魚や骨の多い魚、鯖などの青魚、鶏肉やうなぎや穴子、麺類も苦手、甘辛い物は一切受け付けない。
鮨飯、とんかつ、酢の物、お茶漬け、鮭の塩焼き…くらいしか好物は無く、実態は偏食の塊のような女性だった。
しかし、余程伴侶である父のことを信頼し尊敬していたのであろう。
兄と私が生まれ、我々子供の養育を任されると、その食の面倒は大変な努力で1つ1つ克服していったのだと思う。
もちろん、父が家に居る時には父親の好みが優先された。
ずいぶん長いことクッキンングスクールにも通っていた。
よく思い出してみると母は極くたまにしか我々子供たちと食事を一緒に摂ることはなかった。
我々の食事を用意し見届けた後で、自分はこっそりと1人で好きなものだけを食べていたのだと思う。
そういう意味では、母は大変な努力をして我々に日々の料理を提供してくれていたのだ。
しかも、サラリーマンの月給で家計を支えるのはまだまだ困難な時代である。
母は洋裁が得意だったので、時折はご近所や知り合いから注文を受けて家計の面でも助力していた。
今となって思い出せば、感謝しきれない程立派なシェフであった。(まあ、性格的には色々不満はあるのだが…)

母と私…

こうして食卓に並んだ我が家の夕食の数々である。決して昭和30年代を象徴するメニューばかりではない。大して好きでも嫌いでもないものは省いたが、それでも思い出してみると続々と湧いて出てくる…

『鯨の大和煮』

鯨肉の大和煮缶詰…

最初に持ってきて申し訳ないが、これは缶詰のおかずである。
当時肉類はまだまだ高く、子供たちの動物性タンパク源の多くは安価な鯨肉や魚肉ソーセージが支えていた。(魚肉ソーセージについては前述)

日本人のタンパク源を支えた大洋漁業。

鯨肉には独特の臭みがあって、嫌う子供も少なくなかったが、私は大好きだった。特にマルハ大洋漁業の鯨の大和煮缶詰は大好物。
濃く甘辛い味付けで、温めて熱いご飯の上に乗せると本当に美味しかった!
現在販売されている鯨肉は調査用ミンククジラでさらに臭みが強くあまり美味しくないが、当時の鯨肉はナガスクジラやシロナガスクジラ。
あっさりと淡白で本当に美味しい食感だった。

『鯨カツ』

鯨肉のカツ…
ナガス鯨やシロナガス鯨は今となってはもう食べることは出来ない…

これは母が作ってくれていた。
手頃な鯨肉(肉屋だったか…)を見つけると、買ってきてカツに揚げてくれた。
これも私の大好物。
歯応えがあって、脂が少なく独特の肉感がたまらなかった。
私は醤油と和がらしで食べるのが好きだった。

『中華そば』

給料日前恒例の出前ラーメンではない。我が家では何故かラーメンの夕食は珍しくなかった。
母は麺類は好きではなかったので、自分は食べないのだが、我々子供が好きだったからなのだろうか…
母の手作りラーメンである。
当時母が使っていた麺はこのとてもポピュラーな中華乾麺。(麺のみでスープは自前で作るもの)

即席ラーメン以前から売られていた中華乾麺。

今でもスーパーで時々見かける。
私はこの縮れ麺、歯応えがあって好きだった。
シナチク、チャーシュー、ナルト巻き、ほうれん草、ネギが乗った本当にティピカルな鶏ガラ醤油味のラーメンだった。
もっとも当時の東京には鶏ガラ醤油味以外のラーメンは存在しなかった。
私にとっては嬉しい夕食だった。

『フライドトマト』

我が家伝統の味、フライドトマト…

フライドトマトは朝のベイクドトマトと並んで我が家のおかずの定番であった。
未完熟トマトを厚めに輪切りにしてフライにしたもの。
これは父が子供の頃に早逝した祖父の大好物だったらしい。
もちろん父も大好き、私も大好きだった。
肉類が手に入らなかった時の母の苦肉の策だったのかも知れないが、私にとってはご馳走だった。
これにウスターソースをたっぷり目に掛ける。
熱々をハフハフ…物凄くご飯に合う。
季節によってはサイドにジャガイモの素揚げが乗ることもあった。

『野菜の天ぷら』

季節によって変わる野菜天ぷら…

これも手頃な肉類が手に入らなかった時の苦肉の策だったかも知れないが、大好きなおかずであった。
季節の野菜の天ぷらである。
春夏秋冬、季節によってネタは変わる。
というか、当時は今と違って野菜には歴然とした季節感があり、苦味があり、甘味があり、クセが強く、味が濃かったように思う。
当時の私は基本野菜はあまり得意ではなかったが、これならいくらでも美味しく食べられる。
特に好きだったのは、さつまいもとシソの葉、玉ねぎとにんじんのかき揚げはたっぷりと漬け汁を染み込ませて熱々のご飯の上に乗せて頬張る…
天ぷらにすると、野菜は何でこんなに美味しくなるのか…不思議だった。

『ワタリガニご飯』

身は少ないが風味の濃いワタリガニ。

品川は海に面している。
いわゆる江戸前だ。
季節になると嘘のように安いワタリガニが商店街の魚屋さんに出回る。
その時期になると、ワタリガニの味噌汁やワタリガニの蟹鍋、さらにこのワタリガニの炊き込みご飯が頻繁に食卓に現れる。
もちろんズワイガニやタラバガニ、毛蟹は極く稀に口にできる高級品だが、江戸前のワタリガニもなかなか美味しい。
身は少ないが蟹の風味が濃く、結構卵を抱えているものが多い。
特にワタリガニの炊き込みご飯は嬉しかった。
それに安価なのでたっぷりと味わうことができる!
ワタリガニの時期には結構父親も早めに帰宅していた記憶がある。
我が家の気取らないご馳走だった。

『鶏モツ煮』

見た目はあまりよろしくない鶏モツ煮。

鶏モツは当時肉屋のラインナップでは最も安いものの1つだったと思う。
母は鶏が大嫌いだったが、私も兄もこれが結構好きだったので、時々作ってくれた。
訳の分からない鶏の内臓の部位がごちゃごちゃと混じり合っている。
メス鶏の内臓には『キンカン』と呼ばれる卵子が大小成形途中で連なっている。
それを茹でこぼして臭みを抜き、甘辛く煮込むのだ。
母は「そんなものよく食べられるわね〜」と見るのも嫌そうだったが、これが美味しいのだ!
コリコリ、クニャクニャ肉感があり歯応えのある部分もありおまけに卵まで入っている。
ご飯のおかずにバッチリだった。
母は魑魅魍魎を見る目で眺めていた…

『カレーライス』

ご多聞に洩れず我が家でも定番だったカレーライス。

どの家でも夕ご飯の定番だっただろう。
我が家のカレーは子供のいる家庭のものとしてはかなり辛かったと思う。
父が辛味や香辛料は子供のうちから覚えなければいけない…という主義だった。
なので、辛いものは容赦なく父の味覚に合わせて辛くしていた。
特にカレーは父も大好き。
カレーの日は父は遅く帰宅しても、残った自分の分のルーを大好きなうどんに掛けて食べるのだ。
それでも父はさらに一味唐辛子を足して食べていた。
大概の場合、我が家のカレーはポークカレー。
カレーは母も食べたいので、苦手のチキンを避けたのだろう。
もちろん、たっぷり作って我々は必ずお代わりだった。
付け合わせの福神漬けもらっきょうも大好きだった。

『チキンライス』

チキンライス… 我が家のものはピーマンが入っていた。

ケチャップ味の普通のチキンライス…これも私は大好き。
というかどの家の子供も好きだっただろう。
もちろん鶏嫌いの母は食べない。
鶏肉は小さくカットされた胸肉だったと思う。
我が家のものは私が苦手としていたピーマンが刻まれ入っていた。
これなら私も食べられる…というか気にならなかった。
ちなみに兄はグリーンピースが嫌いだったが、それも入っていた。
嫌いなもの克服ツールだったのだろうか…
兄は嫌いなグリーンピースは母の目を盗んで私の皿に放り込んでいた。
このチキンライス、卵の買い置きに余裕のある時(卵は高価で貴重な食材だった)には『オムライス』となり、さらなるご馳走となるのだ。

買い置き卵に余裕のある時にはチキンライスはオムライスにグレードアップする。

『たこ焼き』

我が家では普通に夕食のメニューだったたこ焼き。

我が家は私が生まれた直後から4年間ほど大阪に転勤していた。
そのせいか、自宅でのお好み焼き用の鉄板やたこ焼き用の鋳物プレートがあった。なので、割と多い頻度でお好み焼きやたこ焼きが夕食のメニューであった。
特に私が好きだったのが『たこ焼き』。
タコはイカより全然好きだったし、テーブルの上にガスコンロを出して焼きながらクルクルとひっくり返しながら食べる楽しさが好きだった。
考えてみたら当時タコは今よりもずっとずっと安い食材だった。
タコのない時でも『ちょぼ焼き』と言って、タコの代わりにイカやウインナを刻んだものやチーズなんかを代用して焼く場合もあった。
これもなかなか美味しかった。
社宅や近所の友達も呼んでちょっとしたパーティー気分にしつらえることも度々。楽しい美味しい夕食…材料は高価なものはないし、我々子供は大喜びなので母にとっては気楽なメニューだっただろう。
ただし我が家は基本大阪人ではないのでお好み焼きやたこ焼きをする時にはご飯は炊かなかった。

『ジャージャー麺』

何故か我が家の定番だったジャージャー麺。

母は麺類はあまり好きでなかったくせに、夏には何故かよくジャージャー麺を作った。
どこかのクッキングスクールで習ったものだろう。
細めのうどん麺をどこからか買ってきて、ひき肉を炒め味噌味の餡を作る…そこにたっぷりのキュウリの千切りを乗せる。
甘辛く挽肉たっぷりのジャージャー麺…
麺大好きの私にとっては嬉しい夏の定番夕食であった。

『マカロニグラタン』

マカロニグラタン用の大きめのグラタン皿も常備されていた。

こちらは冬場の定番メニューである。
マカロニとクリームソース、中には鶏のもも肉と椎茸、玉ねぎがたっぷり入っていて、チーズとバターとパン粉で焼き上げる…
香ばしいバターとチーズの香り漂うボリューム満点のマカロニグラタン。
これは我々にとっては大ご馳走だったが、鶏肉なのでやはり母は食べなかった…

『クリームシチュー』

クリームシチュー…
当時はしめじはまだあまり普及していなかったのできのこは椎茸かマッシュルーム。

これも冬場の定番メニュー。
ホワイトクリームシチューである。
鶏肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、きのこ(きのこは椎茸かマッシュルームだった…しめじは今ほどポピュラーではなかった)、それに芽キャベツとカリフラワーを加える(ブロッコリーはまだ市場に出回っていなかった)。

最近あまり見かけなくなった芽キャベツ。
当時は結構ポピュラーな野菜だった。
キャベツの芽ではない。
一株に数十の芽を出す別種。

クリームシチューはたっぷり作る。
何故なら我が家の場合はクリームシチューはご飯のおかずではないからだ。
炭水化物が欲しいときはパン(ロールパンかトースト…フランスパンはまだ売られていなかった)。
この料理も鶏肉なので、母は食べなかった。

『スパゲティーミートソース』

ソースから作ると結構手間の掛かる…

たっぷりの人参と玉ねぎを細かく刻んで、同量くらいの挽肉を加えて炒め、そこに缶トマトをどかっと入れクツクツ煮込んだミートソース…今のようにワインは普及していなかったし、どの様に味付けしていたのか分からないが、スパゲティーミートソースも母の得意料理だった。
我が家では何故かスパゲティーはナポリタンではなくミートソースが主流だった。麺嫌いの母は当然食べないが、このミートソースは残り物のご飯に乗せて食べていた。

『のりたまと江戸むらさき』
もちろん焼き魚や魚の干物、練り物、煮野菜、お浸しなど、私にとっては特筆する程のこともないメニューも多々あった。
もしも嫌いな料理があったとしても、残すことは許されないし、苦手で不味そうな表情を浮かべることすら許されなかった。
物凄い勢いで怒られ、目の前の全ては取り上げられ、捨てられ、その夜は何も食べさせて貰えない。
なので私も兄も充分に注意した。
そんな時に大きな助けとなったのが永谷園のふりかけ『のりたま』と桃屋の海苔の佃煮『江戸むらさき』であった。

機嫌良さそうに最初1杯目のご飯をおかずで食べ、もう一杯お代わりしてふりかけと佃煮で美味しく口直しするのである。
大助かりであった。

さてさて、我が家の夕食の話、まだまだ続くが、今回はこのくらいにしておいて、残りは次回に回そう…

『昭和であった 〜ご馳走さま!夕食編 2 〜』へ…






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