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昭和であった16 〜ご馳走様!昼食間食編 〜
今も昔も子供の昼食と言えば学校給食である。
私の通っていた品川の小学校は区立。
環状6号線・山手通り沿いにあり、古くからの品川宿の下町と御殿山に続く山手の丁度境にあった。
なので、学童たちは様々な環境地区から集められていた。
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一様に皆よそ行き姿で小綺麗な子供達だが…
我々山手側のサラリーマン家庭は全般的に比較的裕福な地区で、下町の商店の子供たちも日銭に困らない恵まれた家庭が多かった。
それに比べ南側の職人地区、さらには東の海岸側、埋立地付近には朝鮮戦争からの引き揚げ集落もあり、今では考えられないような貧困家庭も珍しくなかった。
その頃の様子も以前ここに公開した私小説『少年ジェットがいた日…』に記してある。
今では無償化が進む給食費は当時1ヶ月300~400円くらいだったか…(記憶違いがあるかもしれない…)
現在の物価に照らし合わせると児童1人当たり4000〜5000円といったところ。
その日暮らしの家庭も少なくなく、クラスには何人かは給食費の払えない児童もいた。
私の母はP.T.A.の役員もしていたので、そういう児童の為に寄付を集めに奔走していたし、クラスの担任教師も余った給食のおかずやパンを小分けして、貧しい児童の就学前の弟妹達のために下校時に持たせていた。
子供達の栄養事情がまだまだ厳しかった当時、学校では肝油ドロップを配ったり、ギョウ虫など栄養補給を阻害する児童の寄生虫の撲滅に取り組んだり、特に学校給食は大変効果的かつ有難いものだったのだ。
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ビタミンAとビタミンD、主に鱈の肝臓から抽出されていた。
毎日一粒舐めさせられた。
なので、配られる給食は絶対に残してはいけない。
有り難く美味しく頂かなければならないのである。
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当時の献立は…おかず1容器に食パンかコッペパン、マーガリンかジャムが付く。後の時代に登場する米食や麺類はない。
さらに、脱脂粉乳が一杯…私にとっては、これが辛かった。
品質が悪かったせいなのか、どうしても好きになれない風味なのだ。
でも、絶対に飲まなければならない…
自前の大きめのプラスチックカップに大量の水を準備し、アルミ容器の脱脂粉乳を一気飲み…間髪入れず、大量の水を飲んで口内から後味を完全に消滅させる…この方法でなんとか長い6年間を凌いだ(笑)。
お陰で、就学前にはそれ程嫌いでなかった牛乳もすっかり嫌いになってしまい、それは今でも続いている。
ある父親参観日に珍しく参加して、給食を一緒に食べた父が帰ってきてこう言った…
「あの脱脂粉乳っていうのは本当に不味いなあ… 俺が南方から引き揚げてきた時にアメリカの船で飲ませて貰ったスキムミルクの方が全然旨かったぞ…」
戦友の殆どを餓死で失った生き残り兵士の言葉である。
給食のおかずは、もちろん現在のおかずと比べれば貧しいものだったが、それなりに工夫が施されていてカレーやクリームシチューや中華旨煮など、なかなか美味しいものもあった。
中でも最も心に残るご馳走は、何と言っても『揚げパン』である。
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後に写っているのはソフト麺らしいので、写真は私の時代よりもずっと後のものだろう。
通常のコッペパンを油で揚げて砂糖がまぶしてある。
これが出されるときは大喜びであった。
通常平日の昼ごはんは給食だったが、午後の間食や土日の昼間には『買い食い』も許された。
当時の品川、特に下町地区には所々に様々な屋台が出没していた。
私が大好きだったのは『どんど焼き』。
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いわゆる東京風醤油味お好み焼き。
これは品川地区独特の呼び方だったのだろうか、いわゆる東京風のうっす〜いお好み焼きである。
旧街道の赤線地区から広まったと聞いている。
薄く伸ばした小麦粉生地に干しエビ、干しイカの千切り、ネギ、削り節、青のり、すこ〜しのキャベツなどを散りばめ、さらにその上から少し生地を振り、醤油で香ばしく味付けをする。
焼きあがるとパタパタと畳んで、新聞紙に包んでくれる。
焼き立ては本当に香ばしく熱々で美味しい。
次にはやはり屋台の『みそおでん』。
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通常の家庭やおでん屋さんで食べる関東風のおでんとはちょっと違う。
あっさり目の出汁で煮上げたおでん種を串に差し、甘めの味噌ダレをつけたもの。ネタにもよるが1串5円だった。
おでん種は安いものに限られていた(厚揚げ、こんにゃく、ちくわ、ちくわぶ、大根、蛸足など…)ので卵やウィンナ巻きなどはない。
これも大好きな間食だった。
もう1つ屋台… 『フライ屋』。
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これも当時の私が大好きだった屋台食。
なんのフライかって?... ただのフライである。
薄い小麦粉を練った楕円形の生地をフライにしたものである。
なので何のフライでもなく、ただのフライなのだ。
香ばしくカリッと揚げられていてボリュームもあって腹持ちもいい。
ソースをかければ、こんなに美味しいものはない。
これも確か1串5円。
街のお肉屋さんで買えるのが揚げたての『コロッケ』や『ハムカツ』。
私はこの『ハムカツ』が大好きだった!
薄い四角い大きいチョップドハムにたっぷりと溶き粉とパン粉を付けて揚げた『ハムカツ』…
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ハムの香りもさることながら、この薄さとカリカリ感が堪らない。
最近、肉厚のハムカツを外食店や肉屋でよく見かけるが、あれでは台無しだ。
あの貧しさが心を浮き立たせるのである… とはあくまでも私の持論。
そして間食の十八番は冬の『石焼いも屋』。
私の社宅アパートは八ツ山・御殿山に向かっての登り口に建っていた。
直ぐ傍からかなりの上り坂が続き、八ツ山の上にはさらに多くの官舎や社宅アパートが連なっていた。
いつも訪れる焼きいも屋さんは私の社宅での商売を終えると、この急な坂をリアカーを引いて登っていく。
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いつもニコニコした優しく明るいおじさんで、私は大好きだった。
ある日、おじさんは我々に「なあ坊やたち、坂を昇るの手伝ってくれないか?」と持ちかけた。
もちろん、快く手助けした。
坂を上り切るとおじさんはお礼に焼き芋を少しずつくれた。
以来、いつも彼が来るのを待って、坂を登る時には数人の社宅の子供達を誘って重いリアカーを一緒に押してあげる…
八ツ山まで登ると焼き芋屋さんは小降りの焼き芋をいくつか取り出して、「僕たちいつも有難う!はい、お礼だよ」と手渡してくれるのだ。
かくして、美味しい焼き芋は冬の定番となった。
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買い食い以外でも嬉しい間食はある。
遊びに行った友人宅や遊び場の近くの住人から頂くおやつ以外のちょっとした間食である。
よく貰ったのは『魚肉ソーセージ』。
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これはかなりのご馳走である。
当時は急激に流行った食材だったのだろう。
メーカーは大洋漁業だった。
特に子供が喜ぶので、結構貰う機会が多かった。
これにあり付いた時は大喜びであった。
今でも魚肉ソーセージは物凄く食べたくなることがある。
そしてよく貰ったのが… 『干しいわし』。
これは煮干しではない。
大振りのうるめいわしを固く乾物にしたものを少し炙ったもの。
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当時はどこの家にも買い置きされていた。
冷めた状態なのでカチコチで噛み切るには骨が折れる。
なので、しばらくしゃぶっては少しずつ柔らかくして一寸ずつ食べてゆく。
ちょっと苦味があって程良い塩味、なかなか美味しい…
食べ切るには時間の掛かる、ちょっとオツな良い間食となった。
家での間食は何と言ってもこれ!
『日清のチキンラーメン』つまり日本初の即席ラーメンである。
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丁度私が子供の頃に発売された。1袋35円と通常の出前のラーメンと変わらない値段(直後に30円に値下がりした)だったが、新しもの好きの両親のお陰で『いざという時子供の間食』という触れ込みで買い置きしてくれていた。
その後他メーカーのものが発売されると即席ラーメンは値下げ合戦となり、最終的にはエースコックの袋ラーメンが1ケース買うと1つ十数円で買えると母親が大喜びし、我が家では以降大量に備蓄されるようになった。
いずれも懐かしい間食の思い出である。
さてさて次回はいよいよ我が家のメインディッシュ、夕食の食卓である。
母には様々なレシピがあったが、その中でも心に残った数々の夕食を紹介しよう…