【読書メモ】『ものがわかるということ』養老孟司③世間や他人とどうつき合うか
写真では外していますが、本の帯にあった、絵本作家ヨシタケシンスケさんのかわいいイラストとオススメの言葉に吸い寄せられて購入した『ものがわかるということ』。
発売3ヶ月ですでに8万部突破とあるので、色んな方が書評は書いていると思いますが、こちらでは相変わらず私的な感想③を残したいと思います。
第3章 世間や他人とどうつき合うか
この章で養老さんは、人付き合いの感受性や機微について話します。
今の世の中は意味あるものしか価値がないと思っている。人はみな意味を求めるけれど、世の中には意味のないもののほうが大きな割合を占めている。
自然はまさにそうで、山にゴロゴロしている石に意味はなく、人間がいなくても自然は成り立つ。
確かに…。
そして、こう続けます。
都市文化では、意味のないものは無駄なもの。無駄なものを全て排除した象徴が会議室であり、学校の教室である、と。
なるほど。会社には意味のあるものしか置かれてていないというのは納得でした。
…でも、個人的には、子どもたちのいる学校はそうであって欲しくないような…。
しかし、思い返してみると、教室には「意味がある」と捉えられているものしか置かれてない気がします。
少し息苦しい感じです。
普通は小学校に上がれば、教室で何の意味や目的も無く、好きな時に絵を描いたり、作ったり、歌ったり、踊ったりはできません。
運動会の絵、読書感想画、紙粘土の置物や花瓶…。
私には、彼らが描いた絵や作品も、理由がなければ教室に居場所がないように思えます。そしてそれは、とても窮屈な空間ではないでしょうか。
学校は、養老さんの言う「自然」なもので溢れた環境であって欲しいな。
意味や目的が無くても、楽しんで作られた絵や作品が、あちらこちらに溢れていて欲しいと思いました。
また養老さんは、理屈や意味を求めても、人と人の機微に気づくことはできない、と言い、その感覚を磨くための方法として子どもと遊んでみることを提案しています。
本書の第一章で、養老さんは人間の作ったものしかない環境 (都市文化) のなかで、子どもは不合理な存在だと話していました。
子どもとは、都市文化では役に立たない、早く大人になれと言われる存在である、と。
でも、その子どもたちと向き合うことが、人間関係の機微に気づくための感覚を磨くトレーニングになると話しています。
確かに子どもは予測不能な存在で、彼らの話を理解するのも難しいし、こちらの考えを伝えるのにもかなり頭を使いますよね。
私は諦めてしまう時も多々ありますが…。
さらに、養老さんはこんな例を挙げます。
田舎なら道を歩いていて石につまずいて転んだ場合、本人の注意不足だろうとなる。
しかし、これが東京駅だと、「こんなところに石を置いたのは誰だ、訴えてやる」となる、と。
石がそこにあるのは自然なことだからしょうがないじゃないか、とはならない。感覚が働かないので、つかず離れずという距離感がつかめない。不寛容になってしまう。
そして、最後に寛容についてこう話します。
対人の世界でも、対物の世界でも、多様な世界に身を置けば、何事も思い通りにならないことがあることを知る。それが、寛容のはじまりである。
養老さんはこの章をこう締めます。
人間の本当の意味での体力や感覚。
都市文化から全く遠ざかることができないとしたら、自然と接する時間や機会を増やすなどのバランスが大切になるのでしょうか。
思わず自分の環境について思いを巡らせてしまいました。
読んでくださってありがとうございます。
今日はこの辺で。