活用とドーピングの境界線
サイボーグ。
肉体と機械のハイブリッドって定義は間違いなさそうだけど、マイノリティリポートやアリータ、スパイダーマン2(サム・ライミのほう)なんかを観ていると、なんつーか「キミはサイボーグだね」と識別される境界線はなんなんだろうなあと。
メガネや補聴器を着用して視力聴力を高めること、ローラーブレードを履いて移動速度を高めること、つまり何かを身に着けることで自分の能力や感覚を強化した人のことはサイボーグと解釈されないんですか?と屁理屈こねながらサイボーグの定義を調べてみると
「人間の身体に機械的・電子的な補助装置を”組み込んだ”存在」
がそれにあたるらしく、なるほど着用しただけではサイボーグではないらしい。
ふーん。
じゃ身体拡張(Body Augmentation)の定義は何なのよ?といつものように連想して調べてみると、
「人間の身体的機能や能力を、技術や外部装置を使って強化・補完すること」
ということらしい。
なら、技術や外部装置を使って身体的機能や能力を強化・補完した状態の人間はサイボーグではないけれど(身体に何ら組み込んではいないので)、何かを身に付けたり持ったりすることで身体的機能の維持やその能力を高めた状態は「身体拡張した状態」ってことなのか。
身体的機能の維持やその能力を高めるために何かを身に付けたり持ったりはしていないけど、サプリメントを服用したりとか遺伝子編集したりして身体能力を強化・補完するようなケース、これは身体拡張を超えて「人間拡張(Human Augmentation)」と呼ぶみたい。つまり身体的拡張に加えて知的・感覚的な能力をも向上させる技術や方法のこと。
スポーツなどの競技界隈においては、(法律やその競技の規定で認められていない)サプリや薬物、科学物質を服用することで一時的に筋力や持久力を高めるなんてこともあるわけで、これも人間拡張の定義に合致するような気がするけど、それを外れてドーピングに分類され不正や違法の対象ととなってしまう。なんなら遺伝子編集しちゃうと一時的でなく恒久的に身体能力を高めることが可能。当然公平性を損なうという意味では不正や違法と扱われることになりそうなわけで、遺伝子編集があったことを示す具体的な証拠を容易に特定できるようになれば、この恒久的な試みについても「はい、それドーピングね」となるんだろうね。
そもそもドーピングがなぜNGなるのかについては、ドーピングしている選手とそうでない選手がいた場合に、前者は実際の身体能力を超えてパフォーマンスを向上させることができてしまい不平等となってしまうから、というのがその第一の理由(二次的には多くの場合健康リスクを伴うから)なわけだけど、例えば、同じように視力が弱いアーチェリー選手が二人いたとして、片方はメガネを着用、もう片方はメガネを着用しない。その状態で競技を行うとした場合、メガネを着用した選手は「実際の身体能力を超えてパフォーマンスを向上させている」わけで、不公平という観点からは(薬物使用や遺伝子編集のケースと同様)どう考えてもドーピングの定義に当てはまるわけだけどドーピングではない。あーなんだか腑に落ちなくて気持ち悪い。
ん?ならビジネス界隈において、能力の強化・補完に活用がOKなもの、NGなものってなんなんだろう。
ビジネスパーソンに求められる基礎的な能力っぽいものをリストしてみると以下のようなカンジ。
時間管理:To Doを優先順位で整理し、時間を適切に配分し、より重要な仕事に集中することで無駄を省く
コミュニケーション能力:明確で迅速なコミュニケーションで業務の効率化とチームワークを向上させる
問題解決力:柔軟な思考で創造的な解決策を見つけ、効率的な仕事の進行に寄与する
目標設定と達成力:具体的で測定可能・実行可能な目標を設定し、進捗を追う
決断力:情報を迅速に収集・分析し、冷静に判断を下す
モチベーション管理力:ストレスやエネルギーをコントロールし、常に仕事に前向きでいる
変化への適応力:常に新しい技術や方法論を吸収し、効率的に新しい状況に適応
こういう能力、何かによって補完したり強化したりせず、「自分の能力だけ」で期待に応えることはほぼ不可能。すべてのビジネスパーソンが身体拡張・人間拡張してると言い切れる。
例えば、
・1においてはTrelloやAsana、Google Workspaceなどを活用して自分の能力を強化・補完してTo Doやプロジェクト管理をしてる
・2ではSlackやGoogle Chat、MS teamsなんかに自分の能力を強化・補完してもらって迅速な情報交換やその記録(記憶)力を高めてる
こんな風に様々なツールに自分の能力を強化・補完してもらってようやくこの残酷で美しい世界に抗うことができている。
ではこれらはドーピングにあたるのか?
いいえ。
先述のメガネの例のようにこれらのツールを「身に着ける」ことによって生じる不公平、つまりツールを使う方のビジネスパーソンが優位に立ってしまうこと、これをドーピングと呼ぶことはありません。
眠いし疲れてるんだけどどうしても明日までのこの資料を完成させなければならない。なのでサプリを服用して自分が深夜まで機能するように強化・補完してもらう。この場合も、服用していない人と比較するとサプリの服用によって機能力に不公平が生じるがこれもドーピングとは呼ばない。
翻って生成AI。この活用については、「それ、ドーピングっしょ」的に認識されている風潮がある。いや厳密にはそういう領域とそうでない領域に二分しているように感じてる。そうでない領域の代表的なものとしては、特に文章や資料、画像・映像などの生成。同じ自分の能力を強化・補完するツールであるMS OfficeやGoogle Workspaceなどは大歓迎、だけど生成AIはドーピング、てな具合。生成AIを活用することはビジネスパーソンの身体拡張に著しい効果をもたしてくれるにも関わらず、です。
生成AIを使う➔それだけで優位に立ててしまう➔だから不公平➔それ故にドーピング
こう扱われてしまうことには違和感だらけ。
上述したツール同様、不公平が生じるくらいに生成AIを「うまく使いこなす」には、それなりの努力とセンスが求められる。AIに出す指令をプロンプトと呼ぶが、この「まともさ」のレベルによってAIから出されるアウトプットのクオリティは大きく変わる。プロンプトエンジニアという職業が存在することがそれを示している。IllustratorやPhotoshopをうまく使える人とそうでない人がいるように、「ただ使うこと=優位に立つ(不公平が生じる)」ということではなく、「上手く使う」ことが求められるわけで。
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過去ビジネスにおいて算盤の活用が主流だった時代に、電子計算機(電卓か)が登場し、その活用がズル(不公平=ドーピング)と扱われたと聞いたことがある。AIにとってのイマはそれに似た過渡期なのかもしれない。馬車が自動車に置き換わったように、手紙がEメールに置き換わったように、レコードがCD➔ストリーミングと置き換わっていったように、いまは様々なものがAIによって代替されるようになってきているし、今後その傾向はもっと顕著になる。
こういった破壊的なイノベーションは、企業はもちろん個々のビジネスパーソンの生存戦略に当然破滅的な影響を与えるわけで、そうであるならまずはその変化を拒絶することなく、一旦は素直に受け入れてみちゃうことが変化に適応するためには最も重要なことだよねぇと思うわけです。
生成AIを身に着けてる人と身に着けてない人との不公平、いまはドーピング的に扱われることもあるような状況だけど、算盤と電卓のくだりと同様、それは根拠弱く解像度の低い不信感・不安感のようなものによって作り出されたものであって、いずれその感覚は薄まり、身に着けるかそうしないかは単に個人の自由であり趣味趣向になっていくはず。
生成AIに限らず、今後登場してくる新しいテクノロジー・ツールの中から、自分が期待するミライの自分に近づくこと加速させてくれるだろうものをうまく選択し、身に着け、人間拡張のレベルを高めていくことが結果ビジネスパーソンとしての価値をより高めてくれることは間違いないだろうしね。
つか、こんなことをテーマにしてゴチャゴチャと書き殴っていること自体、ボクの感覚はかなり遅れているんだろうし、自分自身が「生成AIはドーピングじゃないの?」の疑念を持ってるからこうしてるのかもしれない。考えてみれば、こういった文章の作成を生成AIに頼ったことはこれまで一度もない。情報やデータを提供することよりも、想いや熱みたいなものを表現することを優先したいと思っていて、その表現はボクの言葉選びのクセ・文章構成のクセによってはじめて実現できるものだと考えてるし、それは生成AIにはできないはず(少なくとも2024年の時点では)、という強めの思い込みがその理由。
生成AIをドーピング扱いせず他のツールと同様に位置付けやがれ、と対外的には叫びながらも、ステレオタイプのまま、そのドーピングではないツールを活用しきれていない自分自身への戒めも込め、改めてどう振舞うべきかを記すならこうなる。
ビジネスにおける活用とドーピングの境界線は諸行無常、時間の経過とともにぼやけ、やがて溶けてなくなる。このことは過去の破壊的なイノベーションの事例が証明している。織田信長が合戦で初めて鉄砲を活用した。その時はドーピング扱いされただろうが、時代の流れと共にそうではなくなった。活用なのかドーピングなのかの議論なんかに時間を消費せず、さっさとツールを試して身に着け・組み込み、さっさと自分の人間拡張レベルを高めていく努力に費やす方が100倍いいよねと思うわけです。