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覚えられない「私」

 目を閉じると、無限に広がる暗闇があった。果てしなく続く黒い世界に「果て」はあるのだろうか。

 皆は言う――目を閉じた時に見えるのは「見ていた景色」だと。私のように、真っ暗な暗闇は見えないのだという。


「どうして……いつも見えるのは暗闇なんだろう」

 幼い頃からの疑問はこの他にも山ほどあった。


 どうして私には景色が映らないのか。

 どうして誰の顔も思い出せないのか。

 どうして人の顔を覚えられないのか。

 どうして自分の顔も分からないのか。

 どうして計算が頭の中で出来ないのか。

 どうして頭に「文字」が浮かんでこないのか。

 どうして私は有名人の顔も見分けられないのか。

 どうして人混みに行くと同伴者を探せないのか。


 という具合に……上げていけばキリがなかった。

 人と違う。そう気づいたのは社会に出てからだった。

「あれ……おかしいな」

 社会人生活一年目の夏――少し古いアニメ「黒子のバスケ」を休日に視聴していた時だ。

「母さん、私……推しの顔が覚えられないんだよね」

 アニメの優しいところはキャラクターによって髪色や目の色が違ったり、何かしらのパッと見た時に分かる「特徴」があったことだ。例えばホクロのあるキャラクターがいたり、ヘアピンを使っているキャラクターだったり、奇抜な服を着ていたり……と特徴があると、それを使って見分けていることにも気がついた。

「はあ? どういうこと?」

 母の第一声はこれだった。顔が覚えられない、ということ自体がありえなかったらしい。

「だって……自分の好きなキャラを思い出して下さいって言われても、出てこない。どんな特徴があったかで識別してるよ」

「ええ……? アンタの好きな氷室ちゃんは、ホクロがあって、黒髪で、片目が隠れてるキャラクターっていう認識なの?」

「そう、そういうこと。どんな顔だったかも、輪郭も……顔全体を『顔』と認識出来ないみたいで」

 この話をしている時に、私の中で他にも「分からない」「覚えられない」「思い出せない」ものがあったことに気がついたのだ。

「あ、そういえばなんだけど……景色も風景も、文字も数字も頭に出てこないわ」

「え? 意味がわからないんだけど。出てこないってどういうことさ」

 そのままの意味だと、私が返すと母は首を傾げていた。頭の中どうなってるのよと言われ、私はこう返答した。

「常に何も残らない。目を閉じると目の前に広がるのは真っ黒な闇で……光だけは感じるよ。目を開けてる時に何か見たものを思い出そうとすると……何も出てこない。スッカラカン。何も描かれてないスケッチブックのページみたいな感じ」

 この返答に母は言葉を失っていた。勿論、私もそうだった。顔が覚えられない。文字や数字も頭に浮かばない。見た景色、光景も浮かばない。私の頭には、この世に存在するもの全てが「頭の中」に残らない――そう気づいたのだ。



 定期で通っていたカウンセリングで、先生と話している際にこのことを話すと、先生は「生まれつきで、そういう子もいるよ」と言った。

「この病院に来て、最初に受けたテスト覚えてるかな? あの紙にね、そのことも含めて全部結果が書かれてるの」

 そう言って先生は、私が自宅で保管しているのと全く同じ紙をファイルから取り出し見せてくれた。

「ほら、この文章ね」

 読んでいくと、本当に症状についての記載があった。病名については書かれていなかったものの、自覚症状への対処法が書かれているのも、その時に初めて知った。

「私の病名……相貌失認って言うんですよね?」

「そう。一般的な名前だと……失顔症とも呼ばれているね。脳の機能が上手くはたらいていないってことなの。大それた病名だけど、そんなに深刻な病気じゃないの。脳にあるシステムが生まれつき、上手く作動していない……みたいなニュアンスかな」

 ――脳の機能が上手くはたらかない?

 それはどういうことだろう。話を最後まで聞いていたが、専門家ではない素人の自分にはよく分からない話だった。この話をした日から、脳の機能障害という単語が頭から離れなくなった。

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