『舞台 ダブル』感想
元々原作は飛び飛びで配信分を読んだりしていて、なので熱心に読んでいたわけではなく、観に行った動機はフォロワーさんが同行を募集していたことと、発表された時からたぶん面白いだろうなと思っていたこと、それからしばらく舞台観劇の予定がないので面白い舞台を観たかったことが重なったからだった。
この原作を舞台化すると発表されたとき、紀伊國屋ホールでやるというセンスが凄くいいなと感じたけど、実際行ってみると紀伊國屋書店自体でも展示をやっていたり、ホール内では写真や原作の紀伊國屋ホール内場面の原稿展示をしていたりと地の利を活かしきっているなあとしみじみ思った。
幕が開けると、多家良の引っ越しから場面がスタートして驚いた。
私自身がこの時点できちんと原作を把握していなかったからというのもあったけれど、原作ではやはり宝田多家良、鴨島友仁の2人が生活を共にしていることが(隣同士だけど)描かれているからこその流れな気もしたので。この始まりに関しては役者陣もそれぞれの配信などで驚いたと言っていて、やっぱりそうだよなと思ったりした。
でもその始まりでも2人の親密さや過ごした時間が垣間見えて、すんなりと話に入っていけたのは脚本のまとめ方が凄く丁寧だったからだろうなと思う。
実際この始まりの引っ越しシーンでは、この舞台で描かれない色々な過去や舞台に登場しない人物のことをしっかりと説明されていた。
2人の後に冒頭から出てくる飯谷宗平は、原作では何コマしか出てこないので舞台の中でとして役があることが謎だったが(実際舞台を観たあと、読み返すまでどの人だったかピンとこなかったが)狂言回しとしての役割を果たしていたり、重たい場面でもユーモラスさと柔らかさを演出していた。
飯谷は天才でも名があるわけでもない役者だけれど、どこにでもいる存在に感じられるからこそ、観ている側が抱くであろう疑問もするりと台詞として言うことが出来る役だなと思ったり、金がない役者の悲哀も『舞台作品』だからこそ『舞台 ダブル』のリアリティを感じられるような台詞だったりして、その血の通った作り方が凄く生身の役者が同じ時の流れで伝える舞台の意味を感じさせられた。
飯谷に最後に訪れた幸運(?)も飯谷の物語がきちんとハッピーエンドで完結していて微笑ましかった。
そこから、引っ越し祝いで訪れた轟九十九の前、劇団でやる三人姉妹を演じるシーンで、原作でも印象的な、友仁が多家良が演じる前に二人で作り上げた役について耳元で囁いているのを目にしたが、それがピンスポが当たるわけでもなく、板の上の誰かが注目しているわけでもなく日常の延長のように行われているようで、ともすれば見逃してしまいそうな演出に驚いた。
あまりにもスポットが当たっていないので、実際に起こっていることか、それともあれは多家良が感じ取っている友仁の幻影なのか、とも思わされた。どちらとも取れてどちらでも納得出来る演出に痺れる。
舞台セットは引っ越しのシーンから始まり、幕が降りるまで変化することなく、ずっとロフト付きの一部屋、多家良の部屋として進む。
夏から始まり1年半くらいを描いていくが、その中で食べるものの変化や服装の変化、関係性の変化で四季が感じ取れたのが、客との温度の近い舞台、生活を感じさせるつくりで凄く好みだった。演者が少人数で作る舞台で、心の動きを見せる芝居が多いからこそ、客側もセットチェンジに引っ張られず集中して観ることが出来てありがたかったと思う。
ロフトにしたのは舞台演出としても奥行きが出るように使いたいからだろうなと思ったけれど、ロフトの階段が多家良が友仁(友仁が多家良)と初めて出会ったスズナリの雰囲気も感じさせられて(スズナリと言えばあの階段なので)勝手に想像し、心臓を震わせてしまった。
脚本は青木豪さんで、Dステでお気に召すままや十二夜をやっていたなという覚えがあったけれど、既存のものではない脚本作は初めて観た。
原作を読み返す前にも朧げな記憶で、凄く原作の取捨選択も上手く、纏まっているなあと感じたが、原作を読み返した後の配信で改めてそれを強く感じて唸り、その上、実際に上演されている劇作や劇団名、あらすじなどを登場人物たちが話すことによって(原作ではない多家良が言葉を発せなくなったことによる無言劇のシーン)現実と舞台が曖昧になるような、舞台を観る私たちにとっても『地続き』に思えるような作品になっていて、その仕掛けに思わず口元に笑みが浮かんでしまった。
上演時間などの制約で書けないものがあるのは難しかっただろうけれど、その上で舞台人として書けるものがあるのも、とても楽しかっただろうなと勝手に思ってしまう。(上映時間が2時間半程度なのも、観客の集中力に配慮されてて素晴らしい)
原作にないセリフで物凄く印象的だったものがいくつかある。
いずれも友仁のもので、まずは初級こと『初級 革命講座 飛龍伝』の決起集会で今切愛姫ちゃんに友仁が「二役大変ですね」というところ。
原作にはなくて、原作の友仁は言わなそうだけど、玉置さんの友仁の演じ方かが醸し出すものなのか『舞台 ダブル』の友仁は言うんだな…と納得したし、この時愛姫の顔は見えるけど友仁の表情は見えないような立ち位置で、中屋敷さんの演出か玉置さんの選んだ立ち位置かわからないけど、客へ想像の余地を持たせる演出に唸ってしまった。
原作の友仁は、それこそ愛姫を多家良という役者にとっての福神漬と思っているような節があるけれど、『舞台 ダブル』の友仁にとってはもう少し嫉妬を抱くような相手なんだなと思わせられる一面だった。これってもしかしたら脚本も演出も男の人だからこその作り方かもしれない。
それから、友仁と九十九が初級の代役の話で語り合うシーン。
九十九の代役として選ばれた友仁が、「愛姫さん、俺とだとやりにくそうだよ……」と言ったのが、やっぱり原作だと言わないんだけど、玉置さんの友仁の優しさなら言うよなあ…と思わされてしまう。(原作だとやりにくいんだろうなと思ってはいるだろうけどそんなのお構いなしに仕掛けているので)
ここの井澤さん演じる九十九も、芝居人が芝居人を演じるからこその「辛えなあ」が染みるのだけれど、原作ではここはアパートの草むしりをしているシーンだったが、友仁が多家良の家でベランダにある植物に水やりをする、というシーンになっている。
「多家良は天才であり、自分たちは多家良というカレーを引き立てるための福神漬なんだ」「多家良が天才とわかっていながら、多家良が知らない、自分が持っているものを伝えてほんの少しの優越と安堵を感じている」というようなことを九十九と友仁が語り合ったあと、外では雷が鳴り出し九十九が「降り出す前に帰る!」と帰っていき、強く雨が叩きつけるベランダを見ながら友仁が
「水なんかやらなくてよかったな」
と言う、セリフがあまりにも美しくてびっくりしてしまった。
原作ではないセリフで、多分野田先生もこういうセリフは描きそうな気がしないのだけど(綺麗すぎて…どちらかというとダブルはもっと血の色がしているセリフの使い方(特に友仁と多家良の関係は)が多い気がしている)玉置さんの友仁にはその強さと儚さが相まってバチっとハマっていて凄く印象的だった。
それから、ラストのこたつのシーン(原作はダブルキャストに納得できず稽古をサボった多家良が帰宅して友仁と布団を並べて眠るシーン)は全てが原作と『舞台 ダブル』の脚演、玉置友仁、和田多家良のマリアージュだった。
和田さんは「あのキスシーンは無い方がいい」と始めに意見した、と配信で言っていたが、それもそうで、原作と『舞台 ダブル』ではキスの後の雰囲気がまるで違うし、原作通りだったらふたりでそのまま並んで座り多家良は友仁の作った鶏団子なんて食べられないと思う。
でもこれは『舞台 ダブル』だったからできた事だったと客として思いもした。
玉置友仁は最初から最後までずっと和田多家良のことを、舞台人として羨ましくも憧れていて、同等にとても愛おしく思っていることが演じる全てから溢れていたし、和田多家良もずっと玉置友仁に信頼を傾けて、友仁の行動に愛を見いだしてしまうくらいずっと友仁を見つめていた。
友仁と多家良が酒を飲みつつ、こたつの上で手を絡ませ合うところは、『初級』の小夜子と山崎が一緒に暮らしていたのに手も握らなかった、という行動への否定(多家良は「うっそでぇー!」と言っているし)のように見えるし、それを肯定しているようにも見えた。
小夜子と山崎の間には愛情の芽生えはあっても、性愛はなかったかも知れないが、多家良から向ける友仁への気持ちには性愛がある。だから手を握る、指先を互いの指先で遊ばせたりかたちを確かめるように触るそれは、性的だった。
性愛が見て取れるのは、愛姫と多家良が身体を重ねるシーンからの地続きの多家良の性欲があるからで、愛姫とのベッドシーンを中屋敷さんは「多家良が友仁に性愛を向けていることに説得力を持たせたかったから入れた。童貞だったら友仁に性愛を持つ説得力がない」みたいなことを井澤さんのラジオで言っていたのを聞いて、セックスありきのBLが好きな人みたいなこと言うなあと思い、それが最高に好ましかった。いいですね。
ここでだったと思うが、友仁が「俺はかいしゃくだから」と多家良に言うのが『解釈』とも『介錯』とも取れるなと思って、文字ではないからこそ2つの意味を掴めるところも舞台では大好きな演出なので、グッときてしまった。友仁が酒を飲みながら、愛おしいような諦めのような表情で言うのが、あまりにも胸に刺さりすぎて忘れることが出来ない。
そこから、「好きって言ってもいいかな」「言うな」の後のもみ合いからのキスのとき、(この時の熱と酒で酔っている友仁の表情がグワッと変化するのも最高に手に汗を握ってしまった)薄くホワイトノイズが掛かっていた演出は、いろんな演出の既視感があったけれど、私にとって一番記憶に残っているのはすずかつさんこと鈴木勝秀さんが『ウエアハウス』や『Defiled』で使っていたときの男2人が交渉決裂をして殺すか殺されるかのような対峙をするシーンだった。
中屋敷さんにその意図があったのかわからないけど、まあでも、めちゃくちゃ演劇が好きな人なので知らないわけがないはずで(そもそも出典はすずかつさんではないかもしれないし)、友仁にとってはこのキスとか、多家良に身体や気持ち全部やるっていうのは、役者としての自分の表現をすり減らしてるようなもん(即ち死)だもんな…と考えながら視界がぐらぐらしてしまった。原作からそうだけど、友仁の方からキスをする(刺す)のが多家良の想い(性愛)をここでは受け入れてなくていいなと思う。
その後、ふたりで並んでこたつに入るシーンは、配信で観た時にはもう和田多家良がボロボロに泣いていて、離れたく無いという気持ち、寂しさ、甘え、役と役者の感情が入り混じっているのを感じてしまい息を飲みながらどれが芝居なのかわからなくなってしまうほど入り込んでしまった。
私が実際観たのは前楽で、配信でより没頭して観ていたのだけど、配信では和田多家良がこのシーンで「世界一の俳優ってなんだろう」と言っていて、原作では『役者』と言っているイメージが強かったのでこれも混ざり合っているから出てきた台詞なのかもなと息を飲んだし、『舞台 ダブル』という作品だからこそ起きる混ざり合いだなと思ったりした。多家良として友仁に聞いているけれど、和田さんとして玉置さんに聞いているような、そんな言葉。
「世界一の俳優になるから、友仁さん、俺を演って」と会話できるのは舞台の柔らかくて暖かな空気を纏ったふたりだからだなと思ってしまった。原作だとここではまだふたりの関係はこの時点ではそこには居ない。
でもこの後の初級のゲネが終わった後のふたりなら、たぶん、と思わせられたし、原作への地続きだとも思った。
観終わったとき、一番最初に思ったのは『すごくつか作品の雰囲気がある』だった。
その後、中屋敷さんは熱海もやってるし飛龍伝もやっていると知って納得。
セリフ回しもそうだなと感じる部分があったけれど、中でも音楽の使い方が特にそう感じた。
冒頭で鳴る多家良の携帯の着信音が『白鳥の湖』なのも、友仁が突っ込んで説明するけど熱海だし、ラストに『若者たち』がクレッシェンドで流れるのも、つか作品の雰囲気だった。とはいえ、わたしはつか作品ではなく派生の羽原(羽原大介)作品しか観たことしかないけれど、たぶん羽原さんの舞台作品の演出(特に20年前くらいに観たもの)は正しくつか派生のものだと思う。
『若者たち』が流れることについては中屋敷さんが井澤さんのラジオで「飛龍伝で流れるから」と言っていて、やっぱりそうですよね…と納得した。
初級の説明を九十九が一人語りで始めるときに流れる『青い鳥』も語りの勢いも羽原さんの作品中に及川さんの演技とかで見たことある…みたいな既視感があったので、つまりつか作品でもああいう見せ方をするんだろうなと改めて感じる。
多家良と友仁、ふたりがこたつに並んで入っているシーンで友仁が「家族ゲームみたいだ」と映画版の松田優作の芝居の話をしている中で、『川沿いで聞く音楽』として長渕剛が掛かってるのも、家族ゲーム…になってしまった。私自身長渕に詳しくないのでちょっと調べたところ流れていた曲は『シェリー』らしいけど、歌詞を読むと、あのシーンのふたりを思えばなんとも言えない気持ちになる。
カーテンコールの際、和田さんは前楽を観た時もふらふらで背を丸めてお辞儀をしていたけれど、大楽では泣いてもう立っても居られなそうで、それがこの作品への熱量と気持ちの傾け方を感じるようでそれが凄くじんとした。
最後のカーテンコールで、玉置さんが和田さんをお姫様抱っこするのも、最初にお姫様抱っこされて「お姫様抱っこしたことない」の台詞に続いた、この作品の締めくくりだなあと嬉しく思ってしまった。
うまく纏まらないまま2ヶ月近く感想を書いているうちに、ダブルの新エピソードが公開されて、これは本当に『舞台 ダブル』後の解像度だなあ…と野田先生の表現力に改めて感銘を受けてしまった。いや、もちろん野田先生が描いた世界があるからこその『舞台 ダブル』であることは間違いないけれど、凄く素敵な相乗効果で、私にとっては未だに友仁の台詞は玉置さんの声で聞こえてくる。今回は特にそうだった。
『舞台 ダブル』が映像化や配信を残したり出来ないことは、舞台の消え物や小物だったり、音楽だったりで(これは難しいよな)とは思ったけれど、いつかまた配信だったり、再演だったりで何とかまたあの世界を目の当たりにできる日が来てほしいなと願ってやまない。
それから、この作品をネルケでやったということが、やっぱりネルケって演劇が好きな人が演劇を作っているんだなあとしみじみ気付かされて、この先も末永く見応えのあるものを作り続けて行ってほしいなという思いを新たにした。もちろん、ゴーチ・ブラザーズとの共同主催であるということでこの作品になっているということが、本当に素晴らしい。
その選択も含めて、こんなに素晴らしい作品を見せてくれてありがとうございますという思いになってしまう。
華江さんが初級のゲネで紀伊國屋ホールで言っていた(公演中も劇場内の階段にそのシーンのページが展示されていたのが本当に素晴らしかった)
「舞台と現実は地続き、役と役者は離れられない」
を強く感じる作品だったし、何よりこの作品に関わる人全ての「演劇への愛」が強く伝わってくる作品だった。
そんなこんなで、2ヶ月経っても全く纏まっていない感想だけれど、まだ役者など(冷田さんのあさなさんのことも愛姫ちゃんの乙葵ちゃんのことも書けてない!)綴りたいことがあるのでそれはまた別投稿で。
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