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罪悪感はマヌケな友達

そうしないと、生きられない、生きてこれなかった、というようなことが、人生にはあります。

それは、本当にまだ、ほんの小さい小さい頃でも・・・。

その脅威のために、そうせざるを得なかったってことが、きっと誰にでも、あるみたいなんです。

そうやって、"本来の自分 (authentic self)" は、そうありたくなかったにも関わらず、知らない間に、生きるために、そうせざるを得ないようになってしまうことを  "適応 (adaptation)" と呼びます。

適応せざるを得なかった世界は、どこか居心地が悪いし、信用できないものとなってしまい、本来の自分ってどんなものだったのかも、分からなくなってしまいました。

「生きられないかもしれない」というのは、幼い子にとっては、「愛されないかもしれない」ということでした。愛されなければ、子どもは死んでしまうのです(愛着/attachment)。

そうせざるを得なかった、その生き方が、いつしかその人にとって、「役割」となることがあります。「本来の自分」と「役割」を、混乱してしまいます。

頭で考えていることと、体で感じていることが、ちぐはくで(葛藤)。

虚しさに心が苛まれ、体には調子の悪さがある。

空っぽであり、地に足がつかず。
何かに夢中になっているのは、もしかすると、夢中なのではなく、依存なのではなかろうか・・・。

自分には、そうしなければならない理由が、どうしようもない理由があった・・・。

そのことに、好奇心を持ってみたら、どうだろう。
幼い頃のことは、いつだって、体に宿っているのです。


そこに、罪悪感がある時、体は何を感じているだろう?
体は、何を言っているのだろう?

「自分は充分にできていない。」
「私は良い母親ではない。」
「良い子どもではなかったな。」
「もっと頑張るべきたった。」
「悪いのはいつも私。」
「ここにいない方がいいんだ。」

これらは、感情ではなく、あなたが 、"信じていること(解釈)" です。

あなたには、そう信じなければ、やっていけない何らかの理由が、あったのではないですか?

忙しくしていないと、承認を得られないから。
私が悪者にならないと、お母さんが悪者になってしまうから。
頑張らないと、愛されないから。

そんな風に考えたのは、「生きる術」だったのかもしれない。

人間には、愛され愛したいというニーズがある (attachment)。
同時に、本来の自分自身でいたい、というニーズがある (authenticity)。
このふたつのニーズは往々にして、互いを満たすことができないのです。
(attachment v.s. authenticity) 

なぜならば、本来の自分であることで、あなたに、愛されないかもしれないから。本来の自分であることで、子どもは親に、愛されにかもしれないから。

だからずっと、本当の自分を押し殺してきてしまった。
それが 生きる術、"コーピング・メカニズム(coping mechanism/adaptation)(適応)" だったから。


そうやって学んできたことを、大人になっても、やっている。
「自分はこのように振る舞うべきだ」という思い込み。
だけど時々、そのやり方が、機能しないことがある・・・。

「こう振る舞うべきだ」という期待通りに、自分が振る舞えなかった時、人は、罪悪感を持つのです。

罪悪感があることで、自分は、「あのダメな自分」でいることができる。
"本来の自分(authentic self) " ではなく・・・。

罪悪感は、マヌケな友達。

罪悪感は、自分が自分を裁いていることに、気づかせてくれる。

罪悪感は、あなたが、本当の自分ではない自分を演じていると、教えてくれている。

癒しは、人が本当の自分 (authentic self) であれた時に、自然に起こってくるものです。本来の自分であれていない限り、人は癒しの力を発揮できない。

だから勇気を持って、自分へ取り組むことを、裁くことなく、はじめてみるのだ。

"Unconditional Positive Regard" と、カール・ロジャーズ(カウンセリングの父)は言ったらしい。

「条件を付けず、前向きに受け入れる」というような意味があり・・・。

それは条件付きで愛するということとは、反対のことなのです。

そうやって、「無条件で愛される」ことが、子どもの脳の発達に、欠かせないというのです。

だけれど、私たちは、みんなたぶん、親子の間でも、パートナーとの間でも、友達同士でも、条件付きでしか、愛せないのかも、しれません。

愛していると思っている相手が、難題をぶつけてくるとき。「なんでこの人は、こんなに分からず屋なんだ」と、憤慨するとき・・・。

先生なら、生徒が宿題をしないとき。

カウンセラーなら、あのテクニックを使ってもクライエントが改善しない時。

「あの人は、難しい人だ」と、裁いてしまう時・・・・。

その「あの人」のそのままを、無条件で受け入れられないあなたの問題は、何なのだろう?

何があなたに、「あの人」のあるがままを、受け入れられなくしているのだろう?

そういうことを考えることが、「自分に取り組むこと」なのです。


※このブログは「身体がノーと言う時」の著者で医師であるGabor Mateの講義を要約し、日本語でまとめたものです。


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