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学校行事を問い直す 〜教師の学校行事依存から、子ども主語へ〜
こんばんは!
連休の寒さはどこへやら、一点週明けからはポカポカ陽気で、週末は4月上旬並みの暖かさ、いや暑ささえ感じました。連休は、最後のパウダースノーチャンスということで、半日だけスキーに行ってきましたー!久々のふっかふかの雪に大興奮でした😆
さて、みなさんは学校行事というと何を思い浮かべますか。運動会、音楽会、マラソン大会、卒業式などでしょうか。これらの風景は、私が子どもの頃と変わらず、何十年も同じような形で今も行われています。その学校行事について問い直そうというテーマで、茨城県教育センター主催のエドカフェ(YouTubeで観られます!)で、みんなの学校の木村泰子さん、教育哲学者の苫野一徳さん、そして教員のみなさんが対話されている動画を観て感じたことを今日は書いてみたいと思います。
学校行事というと、何週間も前から教科や普段の授業そっちのけで練習をする。教師が決めたことを大きな声で、息を合わせて、といった具合で上手くできなければ叱責する。そんなイメージです。でも、私はこの子どもそっちのけ、学びそっちのけの見せるための行事にとても違和感を持っています。運動会を例に挙げると、その期間だけ体育の時間が大幅に増えて、終わればほとんど体育をやらないというのは、体育本来の目的からも外れているなと思います。それに、運動会の始まりは、軍隊なので、そういった雰囲気が残っています。それに、みんなの前で順位を競わせることが平然と行われているのもどうなのかなと。運動が苦手な子は運動会は嫌な思い出しかないかもしれません。運動が好きな私でも、暑い中何回も行進やダンスの練習をさせられたのは嫌でした。組体操も怖かった思い出しかないです。
今回の動画を視聴して、木村泰子さんがおっしゃっていた「行事は日常の延長線にあるもので、その練習時間は練習ではなくて授業である」という言葉を聞いて、まさにそこだと思いました。行事を特別なものとして捉えるのではなく、日常の学びの先にあるものとして捉えていくと、取り組み方も変わってくるのかなと思います。入学式から一つの線でつながっていくようなイメージで、保護者や地域に見せるためではなく、教師はこの授業を何のためにやるのかを考えることが大事だと。入学式は、これからこの学校を自分たちで作っていくんだと思ってもらうためにある、大空の6年生は学校のリーダーで、そのリーダーがどんな学校行事にするのかを決めていくんだと。なるほどと思いました。
結局、私もいつも思うのですが、何事も子ども不在で、教師があーでもない、こーでもないと勝手に決めてしまっている。子どもたちと対話をしない。子どもが主語ではなく、教師が主語になってしまっている、そこが問題だと思います。
ある先生が、「6年間の思い出で、やっぱり修学旅行とか運動会が出てくるので、子どもたちにとっては大事なのかなと思う。」と言っておられ、それに対して木村さんは、「6年間の思い出に、大空では行事は出てこなくて、日常が思い出と言う子が多い。それは日常を大事にしているから。」と言っておられました。大空小学校の卒業式では、一人一人が一言スピーチをしていたそうですが、何を言うかは教師も知らない、怖いけどそれが病みつきになると言っていました。卒業生が自分の思いを自分の言葉で語る。本当に素敵な卒業式だなと思いました。
そういえば、夢見る小学校で見たきのくにの卒業式でも一人一人がスピーチしていて、「この学校に来て初めて、私は私でいいんだと思えた。」と言った子がいたシーンをみて、とてもジーンときたのを思い出しました。
苫野さんは、行事に依存している人がいるんじゃないかとも言っておられました。それは、普段の授業を疎かにして、行事で誤魔化しているという意味です。自分のアイデンティティをつくるために、子どもを利用してはいけないともおっしゃっていました。これは、学校だけに限らず、スポーツ少年団などの指導でも言えることですが、自分の存在意義を自分で見出せず、子どもや親に認めてもらうことでしか自分の存在意義を感じられないという人を見かけることが結構あります。小学校は、学級担任制なので、学級王国を作る方って結構います。これは自分自身も気をつけないといけないことですが、「先生のおかげで」と言わせてはいけないんだなと改めて思いました。
最後の方で、学校を変えていくために、学校を見る大人たちを変えることが大事という話もありました。学校だけでは変わることは難しいので、保護者や地域の人も巻き込んで、一緒に考えていくことが大事なんだなと思いました。
それから、「生きることを前向きに考えられない子どもをつくってはいけない。」という言葉も印象的でした。なんでもかんでも、大人が決めて、大人のいうとおりにすることが良い事だとすると、きっと生きづらくなる子が増えていくと思います。そんな話を聞きながら、やっぱり学校は民主的な社会の土台で、民主主義を子どもたちに教えていく場であるべきだと強く感じました。今日はここまでで。