朝日のような夕日をつれて 2024
今回は演劇の感想です。
鴻上尚史さんの『朝日のような夕日をつれて 2024』です。
2024と付いている通り、この作品は何度も再演されてきた人気作、今回で8回目?かな。
僕はこの作品に特別思い入れがあります。
高校3年生の時、新型コロナウイルスの影響で演劇部の大会が中止となり、僕らはぬるっとシームレスに引退になってしまいました。僕らの代は仲が良く、少しでも皆で長く演劇が出来るよう自主的に公演を立ち上げることに。自主公演なら高校演劇連盟だのなんだのじゃなく、自分たちができると思ったら上演できますからね。そこで上演したのがこの作品でした。採用された理由は、僕らの代は戯曲を書ける人間が居ない上に演劇部界隈では珍しく男5人しかキャストが居ないという状況故、先輩からオススメされたこの戯曲に。なんか訳わかんないけど、色々遊べそうだから選びました。
僕は2014年版の戯曲と映像を鑑賞し、他の時代の公演は掻い摘んで知ってる程度です。鴻上さんの作品自体は数こそ多くないけど幾つか嗜んでます。あ、あとゴドーも高校生の時に皆で読みました。
この作品は、演劇の世界では大名作として知られるサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を下敷きにコミュニケーションという物に焦点を当てて描かれています。『ゴドーを待ちながら』は、ゴドーという人をひたすら待ち続けるだけという所謂不条理劇なので、それを元にした朝日も不条理的な仕上がりになってます。
高校生の時は僕含め皆訳分かりませんでした。まず不条理劇に理解が無かったし、抽象的な台詞の数々など、ずっと何言ってるのか分からない戯曲でした。あの時は時事ネタだったり遊びのシーンが楽しいということだけは分かるのでパッションでやってました。
今見ると、少し分かるようになりました。いや、分かる気になったというのが正確なのか?
まず、幕が空いた直後、DVDで何度も聴いたあの音楽に感動し、僕らが必死になって覚えた冒頭の群唄でまた感動し。
2014年版ではWii Uで大失敗した任天堂をいじってた所は今回はスクエニに。僕らの時は時事ネタを2021年に合わせて変える許可を頂き、ここはレベルファイブをいじりました。あと、鬼滅ネタだったり懐かしのCMソングだったり、僕らが自ら潤色して入れたネタを、今回鴻上さんがやってる場面が多々あり、僕らと鴻上さんは知り合いでも何でもないし、僕は鴻上さんではなく、サードステージの制作さんにメールで戯曲使用の許可をいただいてお金を振り込んだだけなので、完全にたまたまなんですが、何かあの時の僕らのジョークの方向性が間違ってなかった気がして、嬉しくなったり。
特に当時僕らが悩んだ最後のみよ子の遺書のシーン。これまた抽象的な台詞の羅列で当時全く分かりませんでした。それでも僕らは話し合ったし、何かやりようは無いかとチューチュートレインしながら台詞を言ってみたり試行錯誤した結果、ト書の通り光を掴もうとするが掴めないに結局したんだよな。本家と違って僕らはピンスポを囲むように寝そべりながらやった。今観ると分かることは、この作品は終始人間社会に、コミュニケーションの弊害に絶望を抱いたまま、「来世に期待」で終幕する作品だったんだなと。当時の僕は何だかよく分からない台詞の羅列だけど、「リーインカーネーション。生まれ変わりを私は信じます」という台詞が希望の様に思えたから、何となく明るい終わりなのかとどこか思ってた。いや、確かに来世に対する希望的観測なのかもしれないが、それこそ形のない光を掴むかのような、空虚な願いでしかない。鴻上さんはこの戯曲を22歳の時に書いたそうだが、今の僕と同い年だ。共感できる気になってしまうというか、このくらいの年代は学生だろうと働いていようと、ようやく社会と関わり合うようになる年頃で。また、思春期を経て自分の頭や心で考え/感じる事ができるようになる年代で、だからこそ他者との関わり合いに絶望する。ごめんなさい。僕が根暗でどの投稿でも毎回同じこと言っちゃうんですが。でも、朝日の台詞でも実際ある通り、他者とのコミュニケーションは大なり小なり絶対に傷つけ合っているんです。全く傷が生まれないコミュニケーション、人間、人間関係なんてあるのでしょうか?この答えは劇中でも言っている通り、存在しない。その真理に0代は気づき始める年代。でも、人間は他者と関わり合わなければ生きていけない。だから劇中立花トーイは自分以外AIの絶対に自分を傷つける相手が存在しない、しかし傷にならない程度の健康的なストレスは与えてくれる、そんな仮想世界を開発しようとする。今みると僕には立花トーイが悪の秘密結社に見えますね。それこそシン・仮面ライダーのショッカーのような。ハビタット計画とか人類補完計画とベクトルは違えど言ってる事は似てるように感じる。その仮想世界は理想郷かもしれないが、果たして本当にそうなのか?みよ子の遺書の台詞で「仮想世界で扉を開けると多くの人々が私を祝福してくれました。その中に私によく似た人が悲しい目をして私を見ていた」的な台詞がある。本当は心の底では自分を否定しない、傷つけない、クリーンな世界なんて欲しい訳では無かったんだと気づき、みよ子は輪廻を信じ、死ぬ。こんな儚く、空虚な終わりがあるか?これは自殺する若者の心理と重なるように思える。あの頃の僕は、みよ子が死んだ事すら戯曲から読み取れなかった。いや、正確にはしっかり遺書と書いてあるから死んだと分かっていたけど、抽象的な言葉や設定に惑わされ、「みよ子って誰?てか何?死んだの?生きてるの?元々居なかったの?概念なの?」と迷ったままで終えた。でも、今みるとみよ子は死んでるんだ。しっかり。立花トーイが開発した理想郷のような仮想世界を体験し、初めこそ幸せを感じつつも興ざめし、来世に期待し、死んだのだ。
凄い上から目線になってしまうが、このような戯曲に秘められた人間社会への絶望、悲愴を他の観客は感じ取れたのだろうか?今回は歴代公演からキャストを大幅に変更し、遂に初演からの続投キャストは居なくなった。今回のキャストは2.5次元舞台などで活躍する若手俳優を中心に起用された。起用しておきながら、鴻上さんは昨今の日本の2.5次元舞台ブームを皮肉った。漫画/アニメの現実離れした格好をし、決めゼリフや口癖など滑稽な台詞を「原作がそうだから」と発語する理由も分からぬまま演じる。いや、それは2.5次元というジャンルであれば正しい。ただ、冷静になってみるとただただ滑稽でしかない。鴻上さんはそれを、キャストのファンが多数いるであろうに盛大にイジった。ここは元々の朝日には完全に無かったシーンなので、時代に合わせたのもあろうが、鴻上さんの本音、どうしても言いたい事なのだろう。そういった主に2.5次元舞台だけを鑑賞する観客に、キャストのファンにこのような不条理劇は理解出来るだろうか?きっと若いキャストのファンは同じく若者だろうし、『ゴドーを待ちながら』も鴻上さんの事も、不条理劇というジャンルも、不条理という概念さえも分からない人も多いだろう。そんな中、鴻上さんは人間社会の絶望を不条理仕立てに観せる訳だが、観終わった後の観客は「〜がカッコよかった」「話分かった?」「よく分かんない。なんかゲーム会社の話?」と言いながら帰るだろう。そこが鴻上さんが自身へ宛てた皮肉というか、多分鴻上さんもそれは分かってる。昨今の2.5次元ブームは目覚しいものだし、僕も2.5次元舞台は好きでよく観に行く。しかし、2.5次元ブームは推し文化に拍車をかけ、2.5次元舞台のブームが果たして演劇文化のブームに繋がってるかと言われると極めて可能性は低いと思う。2.5次元舞台がどれだけ盛り上がろうと日本の演劇文化は衰退の一途を辿っているのだ。演劇やってる僕が、何を持ってして演劇が栄えていると言えるのかイマイチ分からないんだから、それくらいには衰退してるんだと思う。
鴻上さんの皮肉で観客は攻撃されていることを理解しながらも、ジョークとして笑うことしかできない。また鴻上さんも決して一方的に人を揶揄出来る神などではなく、自身も醜い人間であると自覚し、「どうせ、どんなに綺麗な言葉を並べても、相手を想ったつもりでも、傷つくんだよ」とディスコミュニケーションへのある種の開き直りで皮肉のマシンガンを放つ。そんな風に僕は勝手に感じた。
朝日は時代の移ろいと共に、その時々の社会を皮肉り、コミュニティケーションの脆さを謳ってきた究極のディスコミュニケーション演劇だ。僕はこの作品が好きだし、鴻上さんの無差別的に色んな人をブラックジョークで刺したあと、その死体の山を丸ごと抱きしめて愛するかのような言葉な好きだ。
あ、あと遊びのシーンで稲葉友が出演してるからって稲葉友自身が仮面ライダーマッハの格好で出てきた時は、仮面ライダーヲタクの僕は笑いました。
今回はここまで。
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おわり。
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