高堂の父はどうして綿貫に家守を頼んだのか(梨木香歩『家守綺譚』より)
高堂の父はどうして綿貫に家守を頼んだんだろうか、ということを考えている。
年老いたので嫁に行った娘の近くに隠居する、ついてはこの家の守をしてくれないか、ここに住んで毎日窓の開け閉めなりとしてくれたなら、些少なりとも月々のものもお渡ししよう(「サルスベリ」)
高堂の父はそのように綿貫に持ちかけた。おそらく男寡だろうか、蛆の湧く前に娘の近くに身を寄せるのだと。すぐに家をどうにかするわけでもなく、とりあえずは痛まないように誰かに管理をしてもらわなければいけない。家は空き家になった途端に痛み出す。
高堂は在学中に死に、綿貫は卒業して数年経っている。それでもこんな話を持ちかけるくらいだから、高堂の死後、現在まで綿貫と高堂の父との間で少なからず交流はあったと思われる。その中で高堂の父は、綿貫の金銭的な窮状と、絶対に英語学校の正職員にはならないという覚悟を知っていてもおかしくはない。
家守を任せるうえで人柄はよく知っているし、困窮した生活に憐れみを感じて綿貫に声をかけた。そういうことだろうか。
しかし、「ここに住んで」という言い方が引っかかる。高堂の父にとって大切なのは「毎日窓の開け閉めなり」家の管理をすることだ。それだけを言えばいい。それで、そのためついでに「ここに住んで」生活してもよい。そういう語順になるんじゃないだろうか。しかも、管理費として給金も与えてくれる。今までは下宿で寝起きして家賃を払っていたが、今度からは一軒家で寝起きして給金が降ってくる。なんと都合のよい話だろう。
私には、まるで、高堂の父が綿貫をこの家に住まわせようと画策しているような感じを受ける。綿貫に、この家に住んでほしい何か理由がある。それはなんだろう、と考えている。
残念ながら、高堂の父は「サルスベリ」の冒頭以来登場しない。
俺は当時——初めてあの現象を見たとき、まだ幼かったが、それでもそのとき一緒にいた叔父にこう云われて納得したのだ。(「木槿」)
ほら、綿貫、消えてゆくぞ、儚げで美しいなあ。来年もまた出てくるぞ、きっと。(「木槿」)
綿貫はこの家に住み始めた途端、天地自然の気たちとのびやかな交歓をなしているが、それらの来訪自体は今に始まった話ではないということだ。サルスベリは昔から惚れやすく、池には稀に河童が迷い込んでいたかもしれない。木槿を頼りにして聖なる御方の姿が立ち現れるのも「季節ものの蜃気楼」なのだと、高堂は事も無げに言い切った。
高堂はマリア燈籠の話を叔父から聞いたと語る。叔父というくらいだから父方の兄弟だろうか。当時、二人で蜃気楼を眺めていたようだ。高堂の幼い時分だから、叔父もまだ現役世代であったに違いない。そんな叔父が、なぜ高堂の家にいたのだろうか。
そもそもこの家は高堂の父の生家に当たるのだろうか。ちょっと考えづらい。高堂の父の生家ということは、その兄弟の生家でもあるということだ。仮に高堂の父が高堂家の長であったとしても、むしろなおさら、その周囲は青臭い学生上がりに家を任せなどはさせないだろう。
ならば、高堂の家は高堂の父が購入した中古物件だろう。(新築にしてはちょっとぼろい)それなら、高堂以外に息子がいなければ、高堂の父がある程度自由に処分できるだろう。
生家でもない家にわざわざ顔を出していた叔父。それはやはり、木槿と、出現する聖なる御方を見るためではないだろうか。この家にはあらゆる気が立ち現れてくる、そう叔父はわかっていたのだろう。
では、高堂の父はどうだろうか。高堂の父がサルスベリの惚れっぽさや木槿の方の存在を知っていたのかどうか、それに関する言及は一切ない。ただ、思うに高堂の父もむろんそれらの現象について知っていたのではないだろうか。そういう土地柄なのだから。
しかし、人柄がそうかどうかはわからない。高堂はわざわざ「叔父」と呼んだ。一緒に見てその美しい儚さを分かち合ったのは、叔父であった。そうだとは言い切れないが、恐らく、高堂の父はこの現象に対して非常に冷淡か、無関心かだったのだろう。
そういえば、高堂は自身の父に関して何も語らない。自分の生家に綿貫がいて、父がいないことに一つの問いかけもない。それは不思議なことではなかろうか。
——また突然現れるのだな。もう雨は要らぬのか。
そう訊くと、
——初手はな。何事も始めは勝手のわからんものだ。道ができれば通い易い。(「都わすれ」)
そう、高堂はあのときはじめて生家へ帰ってきた。あの嵐の晩、死んでから四五年も経とうかというあの夜にようやく。何故今さら姿を現したのかというと、人魚を囲ってどうするつもりかと綿貫と問答するうちに高堂が、
しかしだから僕なんぞを引き寄せたのだろう。(「萩」)
とこぼしたように、高堂の出現は綿貫に引き寄せられたものだった。有り体にいえば綿貫は幽霊を引き寄せたことになる。それに、綿貫がサルスベリに惚れられたのは「迂闊だった(「サルスベリ」)」であり、木槿に聖なる御方の姿を認めたのは綿貫の「同情した(「木槿」)」心も理由の一端だろう。「カワウソ暮らし(「ネズ」)」などに心惹かれるからカワウソ老人に同類だと見込まれ、「いつも疎水縁でぼうっと桜を見て」いれば桜鬼も暇乞いの一つでもせねばならないと思うのだろう。
魅入られたように私も後を付いてゆく。小鬼が立ち止まる。慌てて私も歩みを止める。(「ふきのとう」)
こんな風に怪異と歩調を合わせていれば、それは当然、あちら側からも歩み寄られるというもの。それでいて綿貫当人はまるで「自然科学を学んだもの(「南蛮ギセル」)」を自負しているように構えている。現実的な人間なんだそうが、あまりにも周囲に起こり立つ森羅万象の「現実」を受け入れすぎて、お前は一体どちら側なのだと聞きたくなる。
衆生というのは平気で矛盾を背負い込める。疎水縁にカワウソ老人が佇んでいようとも、彼に付き合っては生活が成らない、とその存在を見ぬようにする。彼のいない「現実」を選び取る。高堂は意識的に彼らを「現実」だと選び取った。人の世の行く末を信じられず放擲し、葡萄を食べた。しかし綿貫は無自覚的に二重の「現実」を選び取り、その重複するところに生きている。だから、高堂は綿貫のもとを訪れることができた。
すると逆説的に、高堂を引き寄せることのできなかった高堂の父はこちら側の「現実」を選び取った人だったのではないか。そうだとすれば、高堂と父の間には受け入れる「現実」に大きな差異があったはずだ。考え方、価値観、そして目に映るもの、日常生活で立ち現れるそれら全てに齟齬が生じる。二人の間には、知ってか知らずか深い溝が刻まれていたのではなかろうか。
ここで、「家守綺譚」という作品の作中内での位置づけを考えてみる。
左は、学士綿貫征四郎の著述せしもの。(冒頭)
云い忘れたが、私の名前は綿貫征四郎という。(「都わすれ」)
この作品は「私」の視点から語られる一人称小説だ。「私」とは綿貫征四郎のことであることも明示されている。しかし、冒頭でも著者は綿貫征四郎であると明示された。この二度の提示は言ってしまえば無駄であるように思える。
高堂のことを書く——いやいやそれは、もっとあとだ。今はまだ書けない。しかし覚え書きのようなものは書き留めておいてもよいだろう。(「葛」)
考えられるひとつとして、冒頭の著者紹介は綿貫以外の他者によって書き加えられた文だということ。つまり、本文は全て綿貫自身が、不特定多数に公表することを前提として(公表しない、または身内にのみ公表するのであれば「都わすれ」での自己紹介は不要)執筆し、それらを章段ごとにまとめ上げた編集者がおり、「家守綺譚」という作品名で世に出版されている可能性だ。
山内の目が不穏な光り方をした。
——それ、書いてくださいよ。
私は危うくひやしあめを取り落としそうになった。
——それとは、高堂のことか。
——そうです。高堂先輩のこと、人魚のこと、等です。(「葛」)
同時に、これで書ける、とも。(「葡萄」)
そもそも出版社に勤める山内が交歓記録の起草を提案し、綿貫も書く意思を抱いている。本文が非常に砕けた口語文体であり、しかも綿貫の嫌う日常生活をそのまま書き込んだひねりのない内容であるところを見ると、綿貫の草案をまとめただけなのだろうか。
ところで、山内がこのような提案をしたのは次のような動機によるものだ。
——僕だって高堂先輩のことがもっと知りたい。
山内は心もち下を向いてぽそっと呟いた。そういえばこいつは昔から高堂贔屓だった。(「葛」)
前述したように、高堂を引き寄せられるのは綿貫だけであり、高堂が綿貫以外の生身の人間と相対している場面は一切ない。死後の高堂を知るには、どうしても綿貫を介するしかないのだ。
では、今一度考える。高堂の父はどうして綿貫に家守を頼んだんだろう。それは、高堂の父もまた、綿貫のもとへ高堂が訪れることを期待し、綿貫を通して高堂のことを知りたかったのではないか。高堂のことだけではない。高堂の目に映っていた「現実」のことも、また。
高堂は暫く考えていたように見えたが、
——おまえにそれを語る言葉を、俺は持たない。人の世の言葉では語れない。
ううむ、と私も暫し考え、
——しかし俺はそれを言葉で表したいのだと思う。
——無粋なことだ。(「セツブンソウ」)
綿貫はここで、自身と高堂との決定的な差異を自覚する。その差異にこそ、高堂の父が期待を寄せたものがある。
息子が生家で感じ取っていた森羅万象の不可思議な現象、そして彼自身もまたそのような存在に組み込まれたのであれば、せめて、それを知ることはできないだろうか。理解はできない、ただその存在を認めることはできないか。高堂の父は渇望した。
そして父は同時に、高堂が自身のもとへ現れることはないと知っていた。それらは存在しないと、高堂の父はまた固く信じているからだ。
まるで自分の放った声が、彷徨う木霊となり、いくつもの国境に戸惑いつつ、ようやく帰り着いたかのようだった。(「葡萄」)
だからこそ、綿貫に白羽の矢が立ったのだ。二重の「現実」に身を置き、あらゆる世界の境目を越え、その声を文筆という手法を用い伝えうる者として。
そこにはきっと、遅いと分かっていても垣間見たい風景があった。綿貫に頼むのは隠居のためではあったが、隠居という理由の前に、綿貫に託すという行為が先だってあったのだ。湖を写す掛け軸をわざわざ床の間に残して家を移った、高堂の父の心裡を推し量ることは、これ以上はできない。
ただ彼の手元には、上梓された小倉袴の装丁があるばかり。