表現者になりたかった
数年前にバイト先の女の子に言われた
「レンチンさんは、表現者でしょ」
という言葉が胸に刺さって、あの頃よりずっと大きな棘になっているのがわかる。
わたしはこんな生き方をしたかったわけではない。心が踊るように生きていきたかった。
小さい頃水に入るのがとにかく好きだった。
水の中に入ると生きている感覚があって、ずっとここにいたい、その感覚が心から嬉しかった。
そんなふうに自分がこれをしていれば生きていると思えることが今のわたしにはない。
その傲慢な欲望に折り合いをつけれるようになるのが大人である。
わたしはまだまだ子供だ。
つくづく嫌になるほど子供だ。
なにかを与えられることはできている。
他人の人生に関与する仕事であるから、わたしみたいになりたいなんて可愛いことを言われることも多少なりともある。
ただ、誰かに動かされるのではなく、自分の中でこれだけは譲れないというアイデンティティが欲しいのだ。
何かを形にすることは美しいことだ。
たとえそれが報われなかったとしても、それが自分のためだけであっても。
それは評価されることである。
人生の主語は常に自分である。
他人のために生きるのではない、わたしは何者だ?わたしのしたいことはなんだ?
弱くて脆くてあまりに簡単なわたしはすぐに壊れる。
それでも、正直に生きていきたいんだ。
壊れたならそれを見ないふりするのではなく、ぐちゃぐちゃになるまで考えることがわたしのできることだ。
わたしのアイデンティティは表現だ。
怒りであり、痛みであり、悲しみであり、喜びだ。
いつまで経っても、蓋をしようとすると何度も色を変えて、言葉が、気持ちが、次から次への溢れて出てくる。
わからないよ、もう。
ではまた。
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