たまに短歌 暴落することもあるけれど
株下がりドルも下がった昼下がり
空を見上げて笑うしかなし
かぶさがり どるもさがった ひるさがり
そらをみあげて わらうしかなし
仕事絡みのことはこういうところには書かないことにしている。興味が無いからだ。それでも、日経平均が史上最大の下落幅を記録したとか、つい先日まで1ドル160円台だったのが140円割れを覗っているとか、久々に激しい相場になっていると歌でも詠んでみようかなという気になる。
先日、このnoteに「ちょっと変わったことが立て続けに起こっている。もっと大きな「変わったこと」の前兆なのか、なんでもない日常の一部なのか」と書いた。株式市場をはじめとして相場というものは今や出来高の殆どをプログラム売買のようなものが占めているので、一つの流れができるとそれが奔流化してしまうのは止むを得ない。下落幅が史上最大を記録したこと自体は「ちょっと変わったこと」なのか「なんでもない日常」なのか、この後に続くこと次第なのでなんとも言えない。
しかし、昨日と似たような今日があって、その延長線上に明日があると思い込んでいる人が多いのではないかと思うのだが、今この瞬間も、続いてやって来るであろう瞬間も常に未知のことばかりだ。意識するとしないとに関わらず、時々刻々博打を打ち続けているのが「なんでもない日常」の正体だったりする。勝ってばかりということはないだろうし、負けてばかりということもないだろう。そもそも勝ち負けという見方自体に意味がないほど、様々なことが無限に生起している真っ只中を生きているのが「なんでもない日常」なのかもしれない。
6月の何日だったか、東京競馬場に出かけた。競馬場に出かけるのは初めてではないのだが、それほど馴染みがあるわけでもない。観客席のあるところの地上階でも、客席側の柵から馬が走るところまではかなり距離がある。蹄が大地を蹴る音は聞こえてくるのだが、馬の姿は容易に見えない。正面の巨大なスクリーンに映し出される映像を見ていないと馬がどこを走っているのかわからない。やがて蹄の音が近づいてきて、馬の姿も視界に入るが、あっという間に眼前を通過して、レースが終わってしまう。それでも、抜けるような青空の下であったり、ある種の秩序が確立されている客の様子であったり、馬が駆け抜ける際の独特の雰囲気であったりが渾然一体となった中に身を置くのは気分が良い。生きているといろいろなことがあるけれど、たぶん本来は生きることは気持ちが良いことなのかもしれない。尤も、深入りしてしまうと、そうも言ってられないのかもしれないが。
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