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ロビン・ダンバー著 小田哲 訳 『宗教の起源』 白楊社

国立科学博物館館長の篠田謙一が書いたものをいくつか読んで、そこで言及されていた「ダンバー数」なるものに興味を覚えた。人の社会の単位がだいたい150人だというのである。その学説を唱えた人類学者ロビン・ダンバー(Robin Dunbar)に因み、その「150人」を「ダンバー数」と呼ぶのだそうだ。いつだったか、このダンバー数のことを職場の勉強会の講師の順番が回ってきたときにネタにしようと準備を始めたのだが、肝心のロビン・ダンバーの書いたものを読む前に勉強会の順番が来てしまった。そんなわけで本書はしばらく積読状態になっていたのだが、ようやく読了した。

本を読むときは、気になったところに付箋を貼りながら読み、改めて付箋を貼ったところを読み直す。そして頭に浮かんだことをここに書き殴る。読み直してみて、これは何回かに分けて備忘録を残すことになりそうだ、と、今思っている。

原題は"How Religion Evolved and Why It Endures"であるが、いわゆる宗教を語っているわけではない。人の集団としての宗教の生成・拡大・分裂・消滅という過程を考察している。日本語版は原題の後半を「私たちにはなぜ<神>が必要だったのか」としているが、これは訳としては少し大胆な感じがする。本書の内容はいくらでも切り口を見出すことのできるものなので、「神」を持ってくるのもアリだとは思う。しかし、世間での「宗教」とか「神」という言葉の語感が本書の核となるものを誤解させる気がして、この日本語版の題名は私にはいただけない。本書の「はじめに」の中で、ダンバーはこの点についてこう断りを入れている。

 宗教の定義は、宗教研究において最も激しく議論されてきた題目だ。なかには宗教という概念そのものが、啓蒙主義以降の西欧を特徴づける、特殊な思考様式の産物だとする過激な意見もある。この時代を支配していたのは、肉体と魂を分けて、人間がいる地上世界と、神のいる霊的世界に一線を引くキリスト教的二元論だという。しかし多くの小規模な民族誌的(部族的)社会においては、霊的世界も人が生きる世界の一部だ。あらゆる局面に霊が宿っており、けっして別世界ではない。…(中略)… なぜなら文化ごとに、目に映る世界の姿はまるで異なっているからだ。その意味で私たちはただの観光客だ。見物して感想を述べ、ときに感心もして、旅の雑感を残す以上のことはできない。

17頁

「文化ごとに、目に映る世界の姿はまるで異なっている」のである。「文化」というのは集団の属性としてのものでもあり、個人のそれでもある。同じものを前にして、「あなた」と「わたし」が同じものを認識しているわけではない。そして本書の核心と関わる重要な問いが続く。

 もうひとつの疑問は、なぜ宗教がこんなにたくさんあるのかということだ。ひとつあればよさそうなものだが。宗教が時代とともに分裂していく傾向は、今日も新しい宗教運動が次々と生まれていることから明らかだが、既存の世界宗教もすべて、同じ分裂の過程に直面してきていまも直面している。…(中略)… ただ妙なことに、誰もが分裂した事実を当たり前のように述べるだけで、そこにはなぜすぐ袂を分つのかという問いかけがない。世界宗教の多くは、自分たちこそ真の宗教だと信じているが、もし真の宗教がすでに啓示されているのであれば、なぜ人びとはそれに納得せず、ついには別の宗教を立ちあげるようなことをするのか。

21頁

「あなた」も「わたし」も確たるものではない。それぞれが置かれた関係性の中で時々刻々変化している。今は互いに分かり合えていると認識していても、それが持続するとは限らない。逆に今は敵対している相手が、未来永劫相容れないわけでもないかもしれない。「あなた」と「わたし」という個人のことにとどまらず、「あなた」や「わたし」が属する集団の関係性についても然り。この先「あなた」と「わたし」がどうなるかなんて、まるでわからないのである。生物としての我々の在りようは「進化論」で説明される。

ダーウィンの進化論の世界では、すべての生命の起源はひとつしかない。進化の方向と速度を決めるのは、生物がたまたま直面する課題と、偶然見つけた回避策しだいであって、必然性が入る余地はない。進化はまっすぐに進むのではなく、さまざまな種が新しい状況に適応しながら少しずつ変化していく枝わかれのプロセスなのだ。

44頁

生物としての在りように「必然性が入る余地はない」からこそ、つまり、本来が不確定、不安定であるからこそ、今を生きる我々は何かしら頼りになるものを求めるのだろう。それがいわゆる「宗教」のようなものなのか、自分が思い込んでいる「世間体」のようなものか、デジタル表示で明快な損得勘定なのか、特定の関係性なのか、その他諸々も含めての複合的なものなのか、人により、「文化」により、その時どきによるのだろう。ただ、頼りにするには、やはり、何かしら確かっぽいものでないといけない。

いわゆる「世界宗教」には教義がある。呼び方は様々だが聖典として大事にされる。儀式的なものもある。単に頭を下げたり四肢を動かしたりというような簡単な動作でも、何かしかがある。そういう聖典とか儀式とか形のあるものが人と人とを結びつける装置として機能しているのは確かだ。しかし、形あるものは記号であって、そういう装置や記号が機能するには何事かを信じる心の動きがあるはずだ。

 主要な宗教は例外なく、神秘体験が重要な構成要素になっている。ここでいう神秘体験とは、個人がときおり経験する神聖で超越した感覚のことで、自然に生まれることもあれば、儀式的な活動に自ら関わった結果生じることもあり、恍惚や熱狂とも呼ばれる(熱狂は英語でenthusiamだが、これは古代ギリシャ語で「神にとらわれた」という意味のenthousiasmosに由来する)。最も極端な形では、日常の世界から離れて別次元の意識に移動し、何も見えず、何も聞こえなくなって、時間の感覚も消失した平穏な心境が訪れる——神秘主義の文献で「精神の静寂」とも表現される状態だ。もちろん誰もが同じ感覚を経験するわけではなく、その意味では恋に似ているかもしれない。恋は普遍的なものであり、世界のどんな文化にもそれに類するものが存在する。だが同じ文化のなかでも、全員が同じように恋をするわけではない。……(略)……トランス状態についても同じことが言えるだろう。

47-48頁

神秘志向が私たちの心から引きだすのは、言葉では説明しがたい圧倒的な「生身の感情」だ。向精神性物質の助けを借りるかどうかはともかく、強烈な感情を呼びおこすこの神秘的要素は、どれだけ洗練された宗教であっても、すべての宗教行動の土台になっていると私は考える。それは信仰心の原動力であり、それゆえ宗教的な経験から生じるあらゆることに生彩を与える。

69頁

近頃は「生身の感情」というものの肩身が狭い気がする。情報通信や交通が発達して、我々は「文化」を異にする相手と有形無形のものを活発にやったりとったりして生活するようになった。そうなると異なる「文化」の文脈に翻訳できないことは必然的に宙に浮いてしまう。いわゆる「グローバル化」の潮流にあっては、少なくとも広域言語に翻訳できないことは伝えようがないのである。それを敢えて伝える労苦を費やしたところで実利的なものが感じられない、あるいは、そうした労苦を費やす余裕がないと感じられるなら、伝えることはせずに放置せざるを得ない。かくして、自分の、自分たちの、「生身の感情」は生活の中に置き場がないということになる。

翻訳というのは、詰まるところは、ロジックの解析と再構成だ。あくまで言語ありきの下で可能となる。我々の認識は全て言語化できるものなのだろうか。言語化可能な世界だけで我々の生は完結できるものなのだろうか。感情は翻訳できるのか。感情を表出して、それが誰かに伝わって何事か反応が起こり、それが波及したり連鎖したりして自分に返ってくれば、それを以て自分の感情は相対化される。相対化されれば、そこから次の反応が生じる。言語化できないからといって、必ずしもただ埋没するわけではない。それでも、やはりどうしてもこぼれ落ちてしまうものはある。「自分」というものを構成するのに大事なものは、そのこぼれ落ちたものの方にあるのではないか。だから、どれほど言葉や行為を尽くしたところで、喪失感や欠落感が拭いきれないのではないか。

というわけで、続きは次回。

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熊本熊
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