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蛇足 『百年の手紙』

『百年の手紙』に紹介されている手紙の筆頭が田中正造の天皇への直訴状だ。田中は足尾銅山による鉱毒被害の救済に尽力した元代議士だ。先日訪れた群馬県館林市に足尾鉱毒事件田中正造記念館があるのだが、今回は立ち寄らなかった。足尾銅山鉱毒被害は渡瀬川流域の広い範囲に及び、農業被害と健康被害が深刻で生活に困窮した農民が大挙して東京に陳情に行くが民衆の真の声が権力に響かないのはいつの時代も同じことである。栃木県会議員を経て衆議院議員となった田中はこの問題を取り上げ度々国会での質問にも立つが政府は動かない。議員活動では埒が開かず田中は1901年10月に議員を辞職し、在野で救済運動に奔走する。同年12月10日、田中は直訴状を手に帝国議会開会式から還幸中の明治天皇の馬車に駆け寄るが、当然、警備の警官に阻止される。時に田中は60歳だった。この事件は世間の反響を呼んだものの、関心は長続きせず問題解決には至らなかった。

足尾銅山は田中が亡くなって60年後の1973年に閉山、輸入鉱石を使った製錬が1988年に事業停止となる。田中の直訴状は2014年5月に佐野市を訪問された天皇陛下(現 上皇陛下)に伝えられた。

本書に引用されている直訴状の文面は以下のようなものである。

毒流四方ニ氾濫シ毒渣ノ浸潤スルノ処茨城栃木群馬埼玉四県及其下流ノ地数万町歩ニ達シ魚族斃死シ田園荒廃シ数十万ノ人民ノ中チ産ヲ失ヒルアリ、営養ヲ失ヒルアリ、或ハ業ニ離レ飢テ食ナク病テ薬ナキアリ。老幼ハ溝壑ニ転ジ壮者ハ去リ他国ニ流離セリ。如此ニシテ二十年前ノ肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅白葦満目惨憺ノ荒野ト為レルアリ

5頁

近頃SDGsなどと喧しいが、水が汚染され、土地が汚染され、魚が死に、農地が荒れ、人々の健康と暮らしが立たなくなる、という環境の循環、すなわちサステナビリティの問題は昔から指摘されていることで、今に始まったことではない。環境問題は人の暮らしがあるところに必ずついてまわる問題で、生きている限りはその改善や解消に注力し続けなければならないものだ。しかし、それを殊更に言い立てられると何か裏にあるのかと勘ぐりたくなる。私が感じるだけかもしれないが、流行のように騒ぎ立てる人はどこかヒステリックに見える。そんな大騒ぎをするのではなく、日常の暮らしの一部としてひとりひとりが淡々と当たり前に改善に努めるべきことであろう。

いわゆる公害問題は高度成長の時代(=自分の幼年時代)に比べれば実感として格段に改善した。一つだけ例を挙げると、隅田川の水上バスは私が子供の頃は臭かった。水飛沫が肌にかかると、そこがヒリヒリした。今は、水上バスよりもずっと小さな船で隅田川や神田川を巡る遊覧船があるが、そういうものに乗っても昔のようなドブ臭さを感じることはなく、水飛沫がかかってもなんともない。

「直訴」で思い出したことがある。何年か前に長野県青木村を訪れた。日本民藝館友の会主催のバス旅行で、上田駅集合・解散の一日旅行だった。勿論、上田日帰りというのは勿体無いので、別所温泉で一泊してきた。温泉のことはともかくとして、青木村では郷土美術館、大法寺、道の駅で昼食、修那羅峠の石神仏、前山寺、無言館の順で回った。御多分に洩れず青木村にもゆるキャラがある。「アオキノコちゃん」という。ゆるキャラというのはどこも似たようなものなのだが、それぞれの土地の名物とか特徴があしらわれているものだ。アオキノコちゃんの場合、注目すべきは衣装だ。着ている法被の背中に「義民」と大きく書かれている。

青木村役場ウエッブサイトより
http://www.vill.aoki.nagano.jp/aokinokocyan.html

この時、案内役の人から話を聞いて「義民」のことを初めて知った。私が拙い説明をするよりも、青木村義民資料展示室の説明を引用する。

江戸時代青木村から起こった百姓一揆は、天和2年(1682年)から信州の世直し一揆の先駆けとなった明治2年(1869年)の騒動まで、全藩惣百姓一揆の宝暦騒動(1761年)を含めて五回ありました。
「夕立と騒動は青木村から来る」という言葉が、上田に近い里山の村人の間で語られるほど、同じところから5回も一揆の指導者を輩出しているのは大へん珍しく全国的にも注目されています。

http://www.vill.aoki.nagano.jp/assoc/see/material/gimin.html 青木村役場ウエッブサイト

義民とは一揆の指導者のことで、一揆を起こした農民を代表して藩主に直訴状を提出する。それが取り上げられても取り上げられなくても一揆指導者は死罪だ。指導者は村の取りまとめ役であり、庄屋とか村民の民意を代表するに足る見識と人望を持った人であったろう。人々が自分達の暮らしにとって大事なそういう人の命を懸けて何事かを訴えなければならない状況に追い詰められたことがしばしばあったということだ。つまり、それだけ生活が厳しい土地だったということだ。

青木村の義民が向かった先は上田城。真田幸村で有名だが、真田氏が治めたのは1622年まで。その後、1706年まで仙石氏、その後は松平氏が明治まで治めた。一揆は仙石、松平の治世下で起こっている。米本位制とも言える経済システムの中で米作に不適な領地を治めるのは誰であっても容易ではなかったはずだ。領民が難儀をした責任を領主だけに負わせるのは酷かもしれないが、そもそも日本の国土は約7割が山地で、米作に不適な地域の方が多かった。松平は幕政に熱心で藩政を顧みなかったという話もあり、経済を支える現場と政治を司る権力との利益相反が構造問題として内在していた可能性もある。

人に欲望というものがある以上、治世が万人の満足を得ることは永遠にないのだろうが、少なくとも今は歴史上これ以上の安定はないというほど平穏な時代なのではあるまいか。国論を分つほどの大きな論争もなく、その証拠に野党が与党の反対勢力の体を成していない。潜在的には原発を巡る議論であるとか少子高齢化に伴う地域経済の崩壊といった問題が燻っているものの、それらは問題の根が深すぎて場当たり的な対応でどうこうできるものではない。なんだかんだ言ったところで今は幸せな時代なのかもしれない。尤も、それは「今」だけのことなのかもしれないが。

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熊本熊
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