三品輝起 『すべての雑貨』 夏葉社
これまでに読んだ夏葉社の本とは少しテイストが違う気がする。本書の著書は10年くらいして読み返したらかなり恥ずかしいと思うのではないだろうか。それでも、父親の話とレゴの話は面白かった。夏葉社の出版物でこれまでに読んだのは先日ここに書いた『東京の編集者』を含めて以下の6冊で本書が7冊目になる。出版する側と読む側は別の人間なので、出版するすべての本が双方にとって「何度も、読み返される本」というわけにはいかないだろうが、夏葉社の本を手にすると、本という存在の佇まいが大事にされているとの印象は強く感じられる。空疎なデータばかりが跋扈する時代だからこそ、同社の出版物を通じて、本を読むという行為が活字情報を拾うだけの浅薄なものではなく、書かれている内容と本というモノの存在感との全体像を味わうという贅沢なことなのだということが認識できる貴重な体験ができる。
『東京の編集者 山高登さんに話を聞く』
関口良雄『昔日の客』
吉田篤弘『神様のいる街』
永井宏『サンライト』
『庄野潤三の本 山の上の家』
山本善行・清水裕也『漱石全集を買った日』
しかし、本に書かれていることに装丁同様の質感が期待できるか、というのは別の問題だ。本書を通読してふたつのことに感心した。うだうだと文章を連ねることができるものだという著者に対する感心と、それを読み通した自分に対するものである。雑貨ということについては、以下の一節が全てを語っているように思う。
書き換えられたのは「若者たち」の生き方のルールだけではなく、現実世界丸ごとではないか。20年ほど前にベストセラーとなった赤瀬川原平の『老人力』にも似たような記述がある。
自分の脳が十分に発達していないから思うのかもしれないが、日々の仕事や世相を通じた印象として細かい間違いを気にする人が多くなったと感じる。しかも、存在そのものが間違いではないかという奴ほど、細かいことを論う。赤瀬川の方の「法律」はまさに昨今の「コンプライアンス」についてのものと読める。
ついでに近頃不思議に思うのは「コスパ」という概念。投入した労力やコストに対する見返りが多ければ多いほど良い、というしみったれた了見。分母を投入量、分子をその見返りとするなら、分母を限りなく少なくしてゼロにしたらコスパとやらは無限大になるのではないか。つまり、死んじまえ、ということ。
一旦は死んだものに改めて価値を与えたものが雑貨というものか。とすると、『すべての雑貨』の帯にある「雑貨化する社会」という言葉が妙にいきいきと見えてくる。他人様の書いた本を無駄に長いのなんのと、自分がうだうだと書いているのは矛盾の最たるものだ。そうか、私自身も雑貨なのだ。