月例落選 短歌編 2023年8月号 とりあえずの最終回
角川『短歌』の定期購読は既に終了しているため、職場の最寄りの書店で落選を確認する。投函したのは5月12日。題詠は「淡」。これを最後に歌を詠んでいないので、今回がとりあえずの最終回だ。
歌や俳句を記しておこうと思って始めたこのnoteなのだが、俳句について書いた記事60本、短歌の記事が今回を含めて106本、初回2020年11月21日から2年半ほどで小休止なんだか終止符なんだか、ということにした。ま、でも、関口さんがああ言うので、俳句なんだか短歌なんだかは詠む努力を続けてみようとは思っている。
あまり本を読んで感心したり感動したりしない質なのだが、『昔日の客』はなんだかいいなぁと思った。この「復刊に際して」の一節を読んだとき、関口の言葉が自分に向けられているかのように感じられた。今、これを書くのに改めて『昔日の客』をぱらぱらと捲ってみて、やっぱり俳句なんだか短歌なんだかを詠もうかなと思い直している。
それで短歌だが、「淡」という題で三首。
淡き陽に淡き影落つ淡き人
淡い命の淡い輝き
淡路町名前のもとは淡路島
知らない土地の身近な響き
荘子なら「君子の国」と言うだろう
世間は遂に淡交ばかり
別に野球が好きなわけではないのだが、子供の頃は家のテレビに野球中継が映っていることが多かった気がする。父が好きだったからだろう。巨人に淡口という選手がいて、ここぞというところできっちりヒットを打っていたのを何故だかいまだに記憶している。「淡」という字を見て、まずこの淡口選手を思い浮かべたのだが、歌にはならなかった。
高校生の時から都内の学校や職場に電車で通学・通勤しているので、都区内の路線網は線区・区間毎に大凡の客質も含めて頭に入っている、つもりだ。現在の勤め先には京王線=都営新宿線=都営三田線を利用しているが、勤務先が入居しているビルから三田線の大手町駅まで少し距離があるので、帰宅時に、なんとなく億劫な時は、職場に近い半蔵門線の駅から半蔵門線で九段下に出るか、丸ノ内線の駅から淡路町に出るかして、都営新宿線に乗り継ぐ。丸ノ内線の淡路町駅は都営新宿線の小川町駅に繋がっている。
単に「淡路町」というと兵庫県の淡路町(現在は周辺の自治体と合併して淡路市)だが、東京の淡路町は正式には「神田淡路町」だ。東京が江戸と呼ばれていた時代には武家地で鈴木淡路守の屋敷があったことに由来する。「淡路守」というのは令制国あるいは律令国と呼ばれる地方行政区の長官として「淡路国」を治めた「守」というのがもともとの意味だ。令制国・律令国は飛鳥時代から明治初年まで続いた制度だが、奈良時代あたりまでは「守」が実際に現地に赴任して任務にあたったが、平安以降は名誉職のようなものになり、名前だけ、というか、名前の景気付けのようなものへ形骸化した。とは言え、神田淡路町は兵庫の淡路島と淡いながらも関係がある。
ちなみに、国生み神話は、なぜか淡路島から始まり、イザナギ・イザナミ二神は西へ移動して、四国、九州、壱岐、対馬を産んでゆく。そういう意味でも権力の中枢があった江戸、それも江戸城の近くの鬼門の方角に国生み神話の要となるかのような地名を設けることは、やはり、何か意味があるのではないかと思ってしまう。
大阪にも淡路町という地名がある。東京は「あわじちょう」で大阪は「あわじまち」だ。以前、大阪に遊びに出かけた折、たまたま通りかかって御霊神社にお参りした。週末の夕方で人影は少なかったが、手入れの行き届いた立派な御社だったという記憶がある。
「君子の交わり」という荘子の残した言葉らしい。『広辞苑』には
とある。「君子の交わり」には君子ではない人の交わりについての言葉が続く。曰く「小人の交わりは甘きこと醴のごとし」だそうだ。君子ではない人は甘酒ような旨みを求める付き合いしかしない、らしい。昨今、グローバル化とか共同体の崩壊とか、君子であろうとなかろうと、人の交わりは淡いというか、薄いというか、頼りない時代になっている。こういう世情を前にして、荘子は何を思うのだろうか。
以下、雑詠四首。
家族だぜ暮らしを共にしているし
誰だか知らぬ間柄だし
寝ずの番それが仕事と決まってる
何を守るか知らないけれど
燕の巣見上げて捻る歌のこと
思いつくのは毎年同じ
廃屋を集めて静か山になる
山鳥が鳴くニュータウンの跡
家族も今は淡白だ。子供が闇バイトで犯罪に手を染める。スマホなどでネット上で「コスパ」が良いとか、「うまい話」とかに乗り、深入りして遂には自分の生まれ育った国に居られなくなって、他所の国の警察の厄介になったりすることもある。親も暇さえあればスマホを眺めているのだろうが、身内の悪行には気づかないのか、悪行の認識がないのか、とにかく呑気であるようだ。そういう、人から生まれた人っぽい生き物が徘徊する世の中になった。産んだ方も生まれた方も始終携帯端末を手にウロウロしているだけというのもあるだろう。そういう「家族」があるのかもしれない。家族にカンパイか。完敗か。
歌を詠もうと身の回りを見渡すと、これらの歌を詠んだ5月上旬は、駅前で営巣する燕に関心が向かう。毎年似たようなことなのだが、毎日の通り道にあることなので、他人事いや他鳥事ではあるのだが、無事に巣立つだろうかと気になってしまう。今年はこの歌を詠んだ時に営巣していた燕が6月6日に無事巣立ち、それと入れ替わりで隣の巣で営巣を始めたツガイが6羽の雛を育てて7月18日に巣立って行った。
現在の住まいで暮らし始めた頃、燕は人間と同じようにツガイで営巣して子育てをするものだと思い込んでいた。あれから10年。毎年燕を眺めていて気が付いたのだが、巣に出入りする成鳥は2羽ではない。手伝い役のような存在があるのか、自分の子供だと思い込んで世話を焼いているのがいるのか。巣立つ頃になると雛も親も見分けがつかなくなるし、人間と違って、巣立ち即ち一人前なので、そこで親子云々が問題になることは無くなってしまう。誰が育てたの、誰は産み放しだの、などと諍いが起こることもない。要するに子供が立派に育てば、家族の問題は起こらない。そういうことか、と妙に腑に落ちた気がした。「毎年同じ」と詠んだが、繰り返される風景は毎年同じでも、それを見る側は同じではない。今、読み直してみて、そこまで詠まないと歌にならない、と思った。
今年は一度だけ鶯の声を聞いた。自宅のある団地から最寄駅へ向かう途中、燕の巣よりもずっと手前にある生産緑地の看板が立つ緑地の向こう側から「ホーホケキョ」と聞こえてきた。
局地的にはタワマンだ、再開発だ、と人口が急増する地域があるものの、国全体としては人口減少はいよいよはっきりしている。空き家対策は、今や地方だけの問題ではなく、都市部でも現実の問題として浮上している。相続登記の義務化といった行政の対応も具体化しているようだが、総じて見れば廃屋が増え続けて、朽ちるものも増えて、中には小さな山のようになるところも出てくるのだろう。その山で、やがて鳥が鳴くようになるのかもしれない。