坂田和實・尾久彰三・山口信博 『日本民藝館へいこう』 新潮社とんぼの本
先日の尾久さんの講座で、『芸術新潮』の2005年7月号が話題に取り上げられて、現物が会場に置かれていた。「生活デザインの素 日本民藝館へいこう」という特集が組まれ、そのなかに坂田さん、尾久さん、山口さんの鼎談があった。講座の休憩時間に手にとってパラパラと見たら面白そうだった。その特集記事を再編集して単行本にまとめたのが本書だ。
友達はいないのだが、いろんなところの「友の会」には入っている。日本民藝館の友の会にも入っている。入会したのはいつだったかと、押し入れに仕舞ってあるファイル類をひっくり返してみたのだが、はっきりしなかった。2012に更新したことははっきりしているので、少なくとも2011年には会員になっていた。2011年といえば東日本大震災の年だ。初めて民藝館を訪れたのは、2002年から2005年にかけてのいつかだったと思う。なぜなら、その時期に勤務していた先の同僚との会話の中で民藝館を知ったと記憶しているからだ。尤も、それほど当てになる記憶では無いのだが。
さらに押し入れに仕舞われていたファイルを探っていくと、手元に残る最も古い民藝館の入館券は2009年7月26日のものだった。ちなみにas it isの入館券も同じ年のファイルにあって、2009年4月18日とあった。2011年に友の会に入ったとすれば、その年の民藝夏季学校に参加したいと思った所為かもしれない。以前は日本各地の民藝協会が持ち回りで幹事となって民藝夏季学校という二泊三日のイベントを年に3回実施していた。2011年は青森、豊田、倉敷が予定されていたが、青森の回が震災の影響で中止となった。私は豊田と倉敷に参加した。夏季学校のほうは、その後2018年の鹿児島の回に参加したきりだが、友の会のほうは、それ以来途切れることなく更新を続け、今年も新しい会員証が2月3日に郵便で届いた。
民藝館の展示の面白いところは、展示品のキャプションが無いことだ。日本の美術館では、観覧者が展示を観る際にキャプションを読むのに30秒、作品を観るのに3秒、というのが標準的な時間だという話を聞いたことがある。あくまで平均なので、個人差は相当あるのだが、確かに観客の様子を観察していると、圧倒的大多数はキャプションを読むのに時間をかけた後、作品に一瞥を投げるだけで次の展示品へと移動する。要するに、作品そのものをちゃんと観ない人が過半数を占めている。美術館や博物館は展示品をよく観てもらおうと、それぞれに工夫を凝らしているのだが、民藝館の場合はキャプションを付けないという大胆な方法をとっている。尤も、美しさというものは説明して伝えるものではない。そのものを前にして感じるかどうかというだけのことだ。
今となっては、はっきりとしたきっかけは覚えていないのだが、民藝という考え方に興味を覚え、柳宗悦の著作で文庫になっているものは全て読み、濱田庄司や河井寛次郎の文庫本も何冊か読んだ。益子にも出かけ、京都の河井の記念館にも足を運んだ。民藝館での講演会やイベントには時間の許す限り参加した。
それで思ったのだが、自分はいわゆる民藝の品々からは遠いところに居る。いわゆる「美」なんてことは考えたこともないし、「無心」でモノを見るなんて芸当はできない。頭の中は邪念と妄念が渦巻き、しかも齢を重ねて邪念に邪念を重ねているので、自分の眼の不確かさは確かだ。
それで本書だが、やはり著者としてクレジットされている3人の鼎談が面白い。鼎談に先立って坂田さんが民藝館所蔵品の中から「好きな」ものを22点選び、それについての文章を書いている。それを叩き台にして鼎談がなされている。「好き」というのがミソで、道具屋としての眼で「民藝館の代表作」とか「儲かるもの」を選ぶのは「得意」なのだという。しかし「好き」というのは人格や生き方が問われているということでもあるので、選択の尺度が全く違うらしい。河井寛次郎も柳宗悦のように日々思うことなどを偈で表現しているが、その中に「モノ買ってくる 自分買ってくる」というのがあったと記憶している。自分が使うものを選ぶ時の選択眼というのは、その人の了見でもある。殊に「作家」とか「芸術家」だとかその取り巻きとして暮らしを立てている人にとっては、自分の「好き」を気楽に表明しにくいところがあるのだろう。以下、鼎談から目を引いた箇所を引用する。
「民藝」というのは「民衆的工芸」を意味する柳たちの造語なのだが、今の時代の「民藝」に「民衆」はいない。民藝館にあるような品々は、日本の民衆の暮らしが都市よりも地方に軸足を持ち、農林水産業を主たる生業としている人が多数を占めていた時代の道具類だ。陶磁器は設備が大掛かりで工業的要素が大きいので専業であったと思われるが、和紙、和紙を使った工芸品、藁を使った道具類、地域の行事に使う人形や玩具、そうした工芸品の多くは農閑期に多少なりとも暮らしの足しにしようと地方で作られたものだ。農林水産業という主たる生業があっての副業としての手仕事だ。つまり、コストがかかっていないのである。だから副業たりうるのである。工芸品制作を独立した生業にしようとすると、作り手の生活を支えるに足る売価を設定しないといけない。そうなると、生産物の価格は「民衆」の手の届く範囲を超え、有効需要を失う。買い手がいなければ、どれほど美しかろうと生業としては成り立たない。結局、民藝運動というのは或る種の趣味であって、白樺派のボンボンたちのお遊びに過ぎないものだった、と言ったら言い過ぎだろうか。しかし、現に民藝品の制作が生業として現在に残るものなど殆どない。
時代は移ろう。人も、暮らしも移ろう。昨日と同じ今日は無いし、今日と同じ明日があるはずもない。たまたま柳たちが生きた時代、日本のあちこちにそれぞれの風土に合わせて営まれていた暮らしの在りようのなかに、真摯で正直な名もなき人々の手仕事があったというだけのことなのだと思う。
本書の終わりの方に歌人の穂村弘がこんなことを書いている。
その通りだと思う。私の場合は、「邪魔」になるような「知恵」を持ち合わせていないので、はっきり言えるのだが、直観はぐらぐらだ。私だけでなく、たぶん、、、、、