柳田國男 『地名の研究』 講談社学術文庫
熊野三山周辺にはナントカ王子とかカントカ王子跡というものが点在している。本宮に詣でたとき、案内所にあった地図には発心門王子、猪鼻王子、水呑王子、伏拝王子、祓殿王子が明示されていてバスを使った行き方なども書かれていた。そちらにも足を伸ばそうかとも思ったのだが、本宮に至る川沿いの道路を運転してきて、爆進する車と道を共にすることに嫌気がさしていたので見送ってしまった。
本書にもあるように、本来は99の王子も含めての熊野詣だろう。ざっくりしたところでは、本宮の主神からその子供や親戚として分かれ出た神を祀ったのが若宮とか王子であるようだ。考え方次第だが、要所を押さえておけば事足りるのか、関係者全員に挨拶をしておかないといけないのか、という問題だ。「要所」がどの程度の範囲なのかということも気になるところではあるが、いずれにしても車でちょいちょいと三山を巡るのは粗末に過ぎて、何事か神聖な体験をしたことにはならない。尤も、神聖な体験を求めて参詣したわけではなく、単なる好奇心からのことなので、これはこれとして良い体験ができたと思っている。
それでその「王子」だが、東京の北区には「王子」という駅がある。JR京浜東北線と東京メトロ南北線の王子駅と都電荒川線の王子駅前電停だ。王子には王子神社(王子権現)と王子稲荷があるが、王子の地名の元になったのは王子神社の方だという。王子神社の「御由緒」によると、王子神社は元亨二年(1322年)に時の領主であった豊島氏が熊野より勧請したとある。
王子稲荷は王子神社よりも古く、源頼義が奥州追討の時にここを拝んでから発進したという社記があるようなので、前九年の役(1051-1062)の頃にはすでに信仰を集めていたことになる。但し、王子という地名ができる以前で「岸稲荷」と呼ばれていたと由緒書にある。王子神社を祀ったことで地名が王子に改まったため、当社も王子稲荷になったそうだ。
王子稲荷は歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」でも取り上げられているくらい江戸時代には人気の場所だったらしい。現在の王子駅周辺で「百景」に入っているのは王子稲荷(「王子稲荷の社」安政4年(1857年))、装束稲荷(「王子装束ゑの木大晦日の狐火」安政4年)、飛鳥山(「飛鳥山北の眺望」安政3年)、王子石神井川(「王子音無川堰棣 世俗大瀧ト唱」安政4年)、滝野川(「王子瀧の川」安政3年)がある。また、現存しないが石神井川から7つの滝が落ちていて、そのうちの不動の滝(「王子不動之瀧」安政4年)が「百景」に選ばれている。落語の「王子の狐」の「狐」は王子稲荷の狐ということになっていて、噺に登場する料理屋の「扇屋」は、玉子焼きの売店だけだが、今もある。
肝心の王子の地名の元になっている王子神社の方は「百景」の選に漏れている。しかし、飛鳥山は徳川八代将軍吉宗が王子神社に寄進したものなので、神社所有地の一部が選ばれているとも言える。また、当地を流れる石神井川が地元では音無川と呼ばれ、それが浮世絵の題名としても採られている。「音無川」というのは王子神社の勧請元である熊野本宮大社付近を流れる熊野川支流が音無川と呼ばれていることに由来する。敢えて王子神社そのものを取り上げなくとも、音無川といえば熊野から勧請した王子神社を想起するということだったのだろう。
この王子神社には今年に入ってから何故かちょいちょいお参りするようになった。その存在は以前から知っていたのだが、信仰心というものが無いのでこれまで参詣したことが無かった。それが、急に思い立って2月に中古のフィルムカメラを買い、それを持って池袋にある陶芸教室に出かけた或る日の帰りに、ふと「チンチン電車に乗ってみよっかな」と思って東池袋から乗車して、なんとなく飛鳥山で下車した。電停と飛鳥山の間を走る大通り(国道122号線)が大きく弧を描きながら王子駅方面へ下っていく向こう側に森のようなものが見えた。何だろうと思って行ってみたら王子神社だった。それが今年の春先のことだった。以来、陶芸に出かけた折に時々立ち寄るようになった。立地が都電の電停やJRの駅から近いという事情もある。
王子神社境内には末社として関神社という髪の祖神を祀った御社と毛塚がある。若い頃に信心していたら、ひょっとしてこんなふうにはならなかったかも、と思いながらこちらにもお参りする。拍手を打つと、傍の由緒書を彫り込んだ石碑の下で丸くなっている猫がスッと首を上げて「オマエ今更何しに来たんだ」というような顔をこちらに向ける。
東京には八王子もある。八王子の名前の由来については八王子市のウエッブサイトに詳しく記述されている。要するに牛頭天王とその8人の王子への信仰が元になっているらしい。しかし、記録として遡ることができるのは16世紀までだそうだ。
八王子は高尾山に行ったことくらいしかないので、これ以上書くことがない。
地名の由来を辿るのにどのような方法があるのか知らないが、記録によって確かめることのできる過去はかなり浅い。文書として記紀や万葉集は世界的には古い方の部類に入るが、それにしてもせいぜい1300年程度のことでしかない。しかも当時は万葉仮名を使用していた。つまり、独自の文字を持っていなかった。そうなると言い伝えだけが頼りだ。
物事の起点を明らかにしておかないと自分の居どころがわからない。現在の状況を説明するために過去に遡及して現在に至る変化を辿るのは理屈としては真っ当だ。しかし、多くの場合、遡及努力は起点に至らずに途絶えてしまう。いわゆる遡及的錯覚であるとはわかっていながらも、現在自分が経験していることを正当化すべく「過去」を拵えることで一応の安心を得ているのが現実ではないだろうか。そういう意味では、自分の出自を語る上で「どこ」を明らかにすることは重要なことになるだろう。
また、現在の暮らしを考える上でも地名は無視できない。よく地名にはその土地の歴史が隠されているから無闇に変えるべきではない、というようなことを言う人があるかと思うと、利便性向上の為との名目で情け容赦のない地名変更や区画整理が行われる現実もある。
地名とは直接関係ないかもしれないが、古い時代の寺院の立地が比較的リスクの低い場所を選んでいたらしいということが、現代の災害で判明することがある。例えば東日本大震災では三陸沿岸の古くからの寺院は被害が抑えられたらしい。
阪神淡路の震災では高速道路が倒壊した映像があちこちで使われていたが、古道は機能し続けていたという。
ハザードマップは一般に普及しているが、そうしたものを見る以前に、地名に注意を払うことでハザードマップ以上の情報を得ることができるのかもしれない。区画整理などで地名が無造作に変更されるのは現在だけのことではないので、地名の履歴をその土地に古くからあるものと照合してみる必要があるのは言うまでも無い。古い寺社仏閣の立地や古道由来の道路の存在が時として注目されるのは、古来の暮らしが現在においても何がしか繋がっているということだろう。
身近な土地の名前から何かのきっかけで耳にする遠方の地名に至るまで、暮らしの現場の呼び名というのは思いの外多くのことを今を生きる我々に語りかけているのかもしれない。たぶん、それは地名だけのことではないのだろう。身の回りの一見すると何でもないことを丁寧に辿っていくと何事かに思い至ったりするものなのかもしれない。
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