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たまに短歌 滋賀県長浜市6 2024年10月1日 スガへいってくる

入り江にて幾歳続く営みを
沖の白波ただ見つめおり

いりえにて いくとせつづく いとなみを
おきのしらなみ ただみつめおり

再び梅棹忠夫の『行為と妄想』から引用する。

その竹生島のちょうど北の対岸に、菅浦というちいさな集落がある。伊香郡西浅井町菅浦である。100戸ばかりで耕地はほとんどなく、そのかわり全戸が一艘以上の船をもち、主として漁業で生活している。中世には、この村は北琵琶湖で活躍した菅浦水軍の根拠地であったといわれている。琵琶湖の南半分は堅田水軍の勢力範囲であったが、北琵琶湖では菅浦水軍が力をふるっていた。両方の湖上勢力が衝突して菅浦がまけて、いきおいをうしなったと聞いている。

梅棹忠夫『行為と妄想 わたしの履歴書』中公文庫 17頁

これは先日noteに書いた同書からの引用部分のすぐ後に続く文章だ。竹生島に行こうと思うなら、菅浦にも足を伸ばそうと思うのが自然かもしれない。しかし、私はそう思わなかった。地図を見ると菅浦に続く道が一方通行なのである。おそらく公共交通機関では行くことができないだろうし、レンタカーを借りたとしても、不案内の土地で踏み込むことが躊躇われるような場所なのではないかと想像したからだ。私は臆病なのである。子供の頃からそうだった。

旅行に出るとき、ここ数年は最低二泊、できれば三泊と決めている。やはり年齢のこともあって、遠出をすると身体がしんどい。同じ理由から予定も殆ど立てないことにしている。出かけてみて、そこでの状況に応じて無理のないように歩き回ることにしている。今回は三泊で1日は竹生島への船を予約し、もう1日はレンタカーを予約しておいた。レンタカーでどこに行くかは決めていなかった。

宿は駅前に取る、というのも以前にどこかに書いた気がする。駅前、というよりも駅から徒歩圏内というのが正確だ。宿を取る時には朝食と夕食を付けてもらう。わざわざ遠くまでのんびり遊ぼうとやって来たというのに、食べる場所を探してウロウロした挙句に、ロクなところがないというのは嫌だからだ。残り少ない人生なので、嫌なことはなるべくしないように心がける。

たまたま、今回宿泊した宿では、三泊の間、客が自分たちだけだった。食事は宿の食堂のカウンターでいただいた。カウンターなので、食事の配膳をしてくれる人と対面で話をすることができた。当然、「今日はどちらへ行かれました?」とか、「明日はどうされるんですか?」というような話になる。竹生島へ参詣した日の夕食の席で、宿の人と竹生島の話になり、翌日はレンタカーを予約してあるという話になった。すると、「菅浦に行かれるといいですよ。1時間もあれば行けますから」と言われた。それでやっぱり菅浦に行くことにした。私は素直なのである。子供の頃からそうだった。

長浜市役所近くのレンタカー営業所で車を借りる。長浜に慣れている人は、電車で米原に行って、駅前でレンタカーを借りるらしい。確かに宿から長浜市役所の先のレンタカー営業所まで約2kmもある。しかし、長浜駅を起点にレンタカーの営業所を探すとそこしかヒットしない。1時間に2本か3本しかない電車に乗るよりも、自分の足で歩いたほうが確実だ。自分の意識がしっかりしていれば、だが。5月に地下鉄の駅で倒れてからは、自分のこともあまりあてにならないことがはっきりしてしまった。

その遠くのレンタカー営業所に無事たどり着いて、車を借りる手続きを済ませ、いざナビに菅浦の須賀神社を入力しょうとするが、目的地候補リストに無い。他に思いつく目印がないので、とりあえず余呉湖を目的地としておく。出てきたルート案内が高速道路経由だったので一般道優先で再検索。それで出てきた案内に従う。

平日午前9時過ぎ、渋滞はないが大型車両の往来が多い。現代にあっても、この辺りは交通の要衝なのだろう。しかし、木之本あたりからナビが指示する道路は様相が変わってくる。大型車両の姿がなくなるのは良いとして、通行車両そのものが少なくなる。たまに対向車があると、徐行して路肩ギリギリまで寄らないといけない。ナビはどういうつもりなのか知らないが、楽に運転できるところを外れ、このまま進んで大丈夫なのかと思わせることがある。以前、奈良に遊びに出かけたときにも、そういうことが何度かあった。それでも無事に余呉湖のほとりにある大きな駐車場に着いた。駐車場は大きいのに、そこに至る直前数百メートルが極端に狭い道だった。一見して妙だと思い、駐車場に車を停めてから歩いて反対側の出口へ行って周囲を眺めた。案の定、ナビが指示した横道に入らずに、そのまま少し直進すれば、もっと楽にこの駐車場に入ることができた。機械というものにはそういうところがある。

地図を見ると、菅浦のある岬を周回するように道路があるが、岬の西側は双方通行だが、東側は菅浦から岬の付け根へ向かって一方通行だ。どうせなら同じ道を往復するより岬をぐるっとまわりたい。西側の付根に行き、そのまま岬を南下すれば菅浦に着くはずだ。そこで、ナビの目的地を周回道路の西の付根にある北淡海・丸子船の館にする。

余呉湖の北にある駐車場を出て、長いトンネルを二つ通りぬけるとすぐに目的地の前に出た。そのまま通過して岬の道を往く。湖に面していながら、かなりアップダウンのある道で、途中何か所か崖崩れの補修工事をしていた。とりあえず晴天でよかった。上下左右に翻弄されながら、ふっと視界が開け、道路が分岐する。真っ直ぐ登りの道を行けばつづら尾崎展望台、右斜めに湖畔へ下る道を行けば菅浦との標識が出ている。右に下る。

すぐに広場のような場所になる。湖沿いに駐車スペースがあるが、あるところから集落側は集落関係者専用で観光客は駐車禁止とある。その境目に近いところに車を停める。外に出ると空気がちがう。なんだか全く違うところに来たみたいだ。タイムスリップということができるのだとしたら、こんな感じなのかもしれない。その広場のようなところには茅葺の東家のようなものがあり、バス停、石の鳥居、と並び、眼前に小さな集落がある。バスは殆ど来ないようだ。

初めての土地を訪れたときには、なるべくそこで目に付いた神社に参拝することにしている。そして、普通に二礼二拍手一礼して、「こんにちは。お邪魔します」と心の中で挨拶をする。他所の家に上がるときに挨拶をするのは当然だ。バス停の隣の鳥居は須賀神社のものだ。頭上を鳶が一羽旋回している。

梅棹忠夫の家の初代当主儀助は1821年に菅浦の住人、九郎の次男として生まれたのだそうだ。梅棹姓を名乗るようになったのは儀助からだが、今は菅浦に梅棹を名乗る家は無いという。儀助は次男なので、菅浦から外に出たのだろう。京都で大工になり梅棹も京都に暮らした。それでも梅棹の父の代までは菅浦との行き来があった。

わたしの父はしばしば「スガへいってくる」といって、この村をおとずれた。今日でも親戚筋の家が何軒かある。この村から出ていった家は、かならずだれかを村にもどさなければならないというきまりがある。そうしないと菅之浦大明神のいかりにふれるといわれている。それで京都のわたしの家から菅浦へかえったひともあるが、それもいまは梅棹姓を名のっていない。

梅棹忠夫『行為と妄想 わたしの履歴書』中公文庫  18-19頁

私は自分がどこの馬の骨がわからないような者なので、こういう話を見聞きすると素朴に憧憬すると同時に、きっとかなりめんどくさいだろうなとも思う。菅浦の話はまだ続く。

須賀神社 またの名を保良神社
この名前についても興味深い話がある

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熊本熊
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