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1985年2月19日~3月17日 まえがき

そもそもブログを始めたのは、若い頃にインドを旅行したときのメモ書きを整理して公開して、そこで出会った人のなかにそれを読んで何がしか反応が返ってきたらおもしろかろうと思ったからだ。はじめ、それをgoo blogに上げた。多くのサイトが投稿日を操作することができないのに対し、gooは日付を自由に設定することができる。それで1985年というインターネットすら一般には知られていないころのブログができるのである。2020年にこのnoteにアカウントを開いたところ、こちらのほうが読者間の反応が活発なようなので、こちらにも上げてみようと思った次第である。文章自体には誤字脱字の修正等以外は手を入れていない。地名の表記も今以上に拙い思考もそのままなので、今以上に読みにくいのはご容赦いただきたい。

なお、写真がない。ニコンのピカソというコンパクトカメラを持っていって写真は撮った。ただ、そんなカメラでも構えていると人が寄ってくるので、あまり撮っていない。そのたいした数ではない写真をアルバムに収めたのだが、そのアルバムが見当たらない。実家の物置のどこかに埋もれているか、断捨離癖のある父親に捨てられたか。発見できたら、デジタル化してどこかに貼りつけることにする。ま、しかし、自分にはもう写真はいらない。たぶん無いほうがいい。遅かれ早かれ全てのものは消え去る。私自身が消え去るのに、その持ち物があろうがなかろうがどうでもいいことだ。

大学生としての最後の試験が終わってから卒業式までの間、インドに遊びに出かけた。なぜインドかというと、外国に行ってみたかったからだ。でも、金がなかった。金がなくても行ける外国はないかと探したら、インドか中国ならなんとかなりそうだった。中国語ができないので中国は無理だ。かといってヒンズー語もできないのだが、インドは長らくイギリスの支配下にあったから英語が通じるのではないかと考えた。別に英語ができるわけでもないのだがアルファベットくらいなら読めるので、まぁなんとかなるだろうと思ったのである。

当時は日本からインドへ往復するのに10-15万円ほどかかった。エイチ・アイ・エスは当時もあったが、社名はインターナショナルツアーズという、今から思えばちょっと怪しげな名前で、今とは比べものにならないくらい小さな会社だった。でも、当時も安いチケットを探すときには必ずレートの照会をする先の一つだった。もう一つはマップ・インターナショナル。ここは後にエイチ・アイ・エスに吸収されてしまうのだが、当時は競合だった。あとはユースホステル協会でもフライトの照会をしたと記憶している。結果として、マップで航空券を手配した。往路は大韓航空で成田=ソウル=コロンボ、復路はビーマン航空でカルカッタ=ダッカ=ラングーン=バンコク、大韓航空でバンコク=ソウル=成田という経路だ。往路は成田を出てその日の深夜にコロンボ着で、コロンボ一泊だったが、復路はダッカで一泊、バンコクで二泊で、深夜着のコロンボの一泊と乗り継ぎのダッカの一泊は航空料金に含まれたものだった。

インドはビザが必要で、事前に九段のインド大使館へ出かけて申請用紙とパスポートを提出し、1週間か10日ほどかかったような気がする。マップの担当者から助言を得て、マラリアと肝炎の予防接種を受けた。どちらかが二度の接種が必要だったと記憶している。体力をつけないといけないとも思い、出発前の一ヶ月ほどは近所でジョギングをした。小遣いもないといけないので、日雇いで当日現金払いのバイトを探し、交通量調査を何回かやった。航空券の支払いが13万何千円かで、小遣いが5万円。それが精一杯だった。当時は1ドル250円ほど。小遣いの5万円を米ドルのトラベラーズチェック(T/C)にして持参した。

家を出たのは2月18日の午前中、比較的早い時間だった気がする。

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熊本熊
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