本は積んでしまうと行方不明になる。この連休に家の中の整理をしていたら出てきた。先日、同じ著者の『折口信夫伝』の文庫版を読んだ。読んで思いついたことをこのnoteに書いた。読み返してみて、本の中身のことが書いていないので、後で抜き書きを並べて備忘録としておこうかと思った。副題に「その思想と学問」とあり、折口がどのような考え方をする人であったのかということが主題として語られている。それに対し、本書の方は文字通り、岡野が折口の内弟子として暮らした昭和22年から28年9月の逝去までの日々を時間を追うように記したものだ。日々の暮らしの様子を記述するだけでも、その対象となっている人の人となりであるとか考え方のようなものが滲み出てくるものである。しかし、本書だけでは恐らく字面以上のことはわからない。やはり、前提として折口や岡野の仕事を知っておく必要がある。
今となっては、自分がなぜ本書を読もうと思ったのか全く記憶にないのだが、買った時点では、本書を読んでも何も理解できなかったと思う。似たようなことは生活の中でいくらでもあることだ。読書に限らず、人と知り合う順番とか、知らない土地を訪れる時の経路とか、物事を重ねていく時の重ね方次第で、人生が大きく変わるものだと思う。しかし、それは過去を振り返って俯瞰するから言えることであって、今この瞬間の状況がこの先にどう転がるかなんて誰にもわからない。
暮らしは連続している。「連続」の意味は止めることができないということだ。ある瞬間、ある時点の、ある視点での見方を語ることは当たり前のように行われているが、それはあくまで便宜的なものである。ところが、その便宜的なものであるということが当たり前に理解されていない。物事は止まることをしない。世間の言説の殆どが、物事にあるべき静止形があるかのように語られているように聞こえる。不思議なことである。
今、これから先、どう転んでも対処できる心構えを持つのに必要な心身の鍛錬が本来の教育というものなのではないだろうか。それは結局のところ、言語化できるようなことではなく、身近に人の立ち居振る舞いや生き方を目の当たりにして、自身の中で何事かを感得することの連続によってしか実現できない気がする。芸事や職人の世界で師匠の内弟子になるのは、技巧そのものではなく、その背後にある何事かを感得するためだろう。内弟子というような形の問題ではなく、自分を取り巻く人間関係の中に、そういうものが多少なりともあれば、人は何があってもなくても平気で生きることを全うできる気がする。
以下、備忘録として本書からの抜き書き。