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鈴木大拙 『禅の思想』 岩波文庫

いわゆる「晩年」の域に入り、頭の整理というか心の準備というか、そんなことに気持ちが向くようになった。そうしたなかで、目下最大の関心事は自他の意識だ。

十数年前に『亀も空を飛ぶ(クルド語:Kûsiyan jî dikarin bifirin、フランス語: Les tortues volent aussi、英語: Turtles Can Fly)』という映画を観た。映画のことは観た直後に別のブログに書いた。

この映画に描かれている生活も人間の暮らしに違いない。感染症がどうの、景気がどうの、と言ったところで自分の身の回りの暮らしは、この作品に描かれているものに比べれば随分安穏としている。幸い、これまで自分が生きてきた60年弱の生は、難民キャンプでの暮らしも、戦争も、大きな自然災害も縁がなかった。貧乏とはいいながらも食うに困るほどではなく、当たり前に明日を信じていられる程度の安心感はある。しかし、映画とはいいながら、この作品に登場する子供たちは総じて明るく逞しい。現実とはいいながら、自分の身の回りはしょうもない不平不満に溢れている。なぜだ。

人の生を支える意識は、身の危険に対する認識よりも、生活の中での自分の立ち位置の把握にあるのではないだろうか。その位置の把握・認識を自我の確立と呼ぶのだろう。自我というものがしっかりしていないと不安に慄きながら生きることになるものだが、自我は他者との対比のなかで成り立つ。しかし自他の別に拘泥すると永遠に自我は確立されない。矛盾している。この矛盾にこそ自分がある、そう思わないことにはしょうがない。世にある宗教というものは、いずれもこの矛盾を克服する方便なのではないか。

本書の冒頭は宗教の意義を簡潔明瞭に語っている。これだけで、本書は読むに値するものだと思った。また、これ以外に何を語ることがあるのだろうかと訝しく感じた。読み通してみたら、同じことを繰り返しさまざまに表現してるのである。

人間そのものの革命は宗教より外にない、即ち霊性的自覚の外にない。これがない限り、人間と生まれて来た甲斐がないのである。(10頁)

要するに、「自分」とは自覚なのである。それを、どういう家庭に生まれたとか、どういう学校に通ったとか、どういう経歴だとか、肩書きだとか、言語化された看板を無闇にぶら下げて、その看板に意味があるかのように思い込んでいるだけで、「だから何なんだ」という自覚が無いから救われないのである。自覚がなければどれほど自分の周りに事を重ねたところで不安は消えず、挙句の果てに大言壮語をしてみたり、大風呂敷を広げてみたり、というようなみっともないことを習慣にして周囲から蔑まれるのである。もちろん、大人の世界では社会的地位のある人に面と向かって罵詈雑言を浴びせるようなことはしないものだが、巧言令色鮮矣仁ということは思わないといけない。

「先生」と呼ばれるほどの馬鹿でなし

なんていう昔からの川柳もあるが、人はたいして賢くはなっていないのだろう。生活周りの道具類は大層高性能になったようだが、使う側が馬鹿だとそれで世の中が良くなったりはしないものである。

衆生の本質は元来無我であるから、因果を超越して居るが、而もみな縁業に転ぜらるのである。そうして苦を受けたり、楽を受けたりする。それは、その場での業縁から出るのである。それ故、何か世間的に好いと思うことがあっても、それは自分の過去の宿因で今それを感得するのである。縁尽きてしまえば、何もなくなるのであるから、特に喜ぶべきものではない。得失は何れも心から出るのだから、心に増減(即ち喜憂)を抱くことなく、泰然として動かずに居ればよいのである。(25頁)

結局のところ、矛盾は矛盾として抱えながらも、身の程をわきまえて、その時々の機縁に順っていればそこそこ安穏に暮らしていられる気がする。それは例えばこんなことなのだろう。

雲巖曇晟が茶を煎じて居たときに同侶の道吾が、
問、「煎与阿誰。」(誰に煎てやるつもりなのだい。)
答、「有一人要。」(一人欲しいと云うものがあるのだよ。)
問、「何不教伊自煎。」(自分で煎さしたらよいではないか。)
答、「幸有某甲在。」(わしがここに居るのでな。)
一寸見ると、何でもない日常の談話のようである。そしてその言葉遣いもまた何等幽玄なものを示唆するのでもないようである。(中略)一問一答これだけであるが、その中に含まれて居るものを、もっと分別知の上で評判するとこうである。「有一人要」と云うこの一人は、自分では茶を沸かすわけには行かぬのだ、また一人だけでは茶を要することもないのだ。「幸有某甲在」と云う某甲があるので、その手を通して茶が煮られる、而してさきに茶を要すると云った一人もまたこの某甲を通して要意識がはたらくのである。一人と某甲とは分別性の個多の世界に居るのでない。が、要と云うはたらき、煮ると云うはたらきは、某甲のいる分別または個多の世界でなくては現実化せぬ。(中略)一人と某甲とは両両相対して居て、而も回互性・自己同一性を失わぬのである。(239-241頁)


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熊本熊
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