言葉考 『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』
本書で興味を覚えたことの中に言語と遺伝子の関係についての記述がある。
DNAの変化と言語の変化が似ているというのは以前から認識されていることで、生物学や人類学の文脈で言語が語られるのも、言語学の文脈で生物や人類が語られるのも目新しいことではない。同じ言語集団の中で婚姻が行われる傾向があるので、言語と遺伝子が関連するのは当然なのである。しかし、ここにあるように、変化の速度が全く異なるので、そう鮮やかに関連づけることができるわけでもない。やはり、どこかしかに謎は残るものだ。
一般に「日本人」というと人種的にはモンゴロイドで母語として日本語を話す人、というイメージが一般的ではないだろうか。スポーツの国際試合などで、そうしたイメージから外れた風貌の「日本人」選手が現れると、背景で様々な雑音が飛び交うことがある。昔、「民族」という言葉があったが、合理的な定義が困難なので学問の世界では死語になった。このことは国立民族学博物館の先生から伺ったので間違いないだろう。
いわゆるITあるいは解析技術が発達して微量の検体や試料から大量の情報が短時間で得られるようになると、科学的エビデンスを前にして人情に基づいた対象の識別とか分類というのは意味を失うことになる。もちろんITは人間が拵えたもので万能ではないし、天才的人物の閃きが真理の真髄を突いていることだってあり得るのだが、様々な背景を持つ世人の多数を納得させるにはそれなりの形式に整えられた情報が必要になるのも我々の現代社会の現実だ。
DNAと違って言語は必ずしも記録として残らない。むしろ、残らないもののほうが多い。社会生活での最低限の教育を称して「読み、書き、算盤」などと言う。その大前提として読んだり書いたりするものが存在しているということなのである。つまり文字とそれを記録する媒体が存在しているということで、文字が存在するためにはその記録媒体が豊富でなければならない。
日本語の場合は言うまでもなく紙だ。製紙法は、いや、製紙法も中国大陸から伝来した。よく観光地で和紙の手漉き体験ができるが、日本各地にそれぞれの土地の和紙がある。これは冬場の農閑期の所得獲得手段として日本各地でそれぞれの土地の環境や事情に応じた製紙が営まれたからである。製紙自体は手間はかかるが難しい作業ではない。楮や三椏といった紙の材料に適した木材の繊維を取り出し、黄蜀葵の根を砕いたものを溶いたゲル状の水で撹拌して繊維密度が一定の溶液を拵え、竹を編んだ笊状の平台で掬って均一の厚さの紙を漉く。黄蜀葵の根は冬の低温でないとゲル状にならないので、冬に紙を漉くのは理に適っている。
記紀や万葉集のオリジナルは木簡に記されたが、現在流通している版の底本は紙の写本だ。古刹に収蔵されている教文もかなりの規模の量だろう。古文書の豊富な存在によって、この国の歴史は他の多くの国に比べてかなり前の時代まで詳細に遡ることができている。今は紙媒体の出版物が徐々に減少し、書店の無い地域が少しずつ増えているようだが、それでも日本の出版市場は依然として世界屈指の規模だろう。
そういう文化の中で暮らしているから、逆に紙や文字の恩恵というものが実感できていない。その紙ががない文化に対する想像力が貧困ということにならざるを得ない。現実の世界は、記録媒体に不自由し、諸事の記録を口伝に依存せざるを得ない言語の在り方を強いられてきた文化の方がはるかに多い。他所の国のことを考えたり、他所の国と比較する際には、そのあたりの違いはしっかりと意識しないといけない。
現在、日本政府が国家として承認している国は195カ国ある。これに日本自身を加え、我が国としては196カ国の存在を認識していることになる。国連加盟国は193カ国。国の数というものは、例えば過去100年の間にずいぶん変化した。いわゆる「民族自決」という原則の下に欧米の植民地であった地域が国家として独立を果たしたからである。しかし、先にも述べたように現在では「民族」という人間社会の括りは少なくとも学問上は無くなった。今は、ある種の覚悟とか意識の表明としてそういう言葉が使われているだけのことだ。
実際のところこれまでも「民族」を構成する要素はきちんと決められているわけではなかった。例えば言語、殊に母語は個人的な思考の枠内にあって正確に表明されたり認知されたりする類のものではない。先祖を辿れば日本にルーツがあり、名前も日本風のものであったとしても、日本語を解さない人というのは世界に多数存在する。そういう人々の母語は日本語ではなく、それぞれの土地の言語であるはずだ。言葉というのは、人間の自意識を形成する要素だが、世間一般の印象と実際とは必ずしも一致しないのである。つまり、「私は日本人です」と言う時、「私」にきっちりとした定義があるわけではない。
現在、世界には約6,000の言語があると言われている。しかも、その数は年々減少している。国家が200弱しかないのだから、言語の存在を支える文化装置も最大でその程度の数しか機能していないということは当然に影響がある。しかも、文字を持たない言語の方が割合から言えば圧倒的に多い。そうなると、話者が存在しなくなったら言語も共に死滅する。言語基盤が脆弱な文化は政治的にも不安定であることが多い。また、「グローバル化」と呼ばれる生活様式の一様化でそれぞれの土地や文化の独自の生活体験が失われているという面も無視するわけにはいかない。
アフリカ大陸での言語集団の分化は、生活様式の分化と密接に関係している。ざっくり言ってしまえば、狩猟採集で生きるのか、農耕牧畜か、第三の道か、ということだ。それは、アフリカ大陸だけでなく、アフリカを出て世界各地に拡散した人類全体についても言えることだ。
それで日本人はどうなんだ、という問題意識に立ち返ることになる。結論としてはまだまだわからないことが多いらしい。
この辺りのことは、稲作がいつ頃どのようにして日本列島に伝わったかという話とも関連してくる。縄文人から弥生人への人の入れ替わり、あるいは弥生人の到来、といった熱い論争を大きく左右する知見だが、これから古代ゲノムの解析が進んで、そう遠くない将来にかなりはっきりするのだろう。
しかし、日本語や日本語を母語とする言語集団の生い立ちがはっきりしたからといって、個々人の自意識がどうこうなるわけでもあるまい。学術上の研究を推進しているIT系の進歩が、一方では同時に、一般的な生活体験を貧相なものにして、世相総体としては知性や感性の退化を促しているように思えてならない。