たまに短歌 滋賀県長浜市9 2024年9月30日 絵に描いたような安直
神仏出世大名天下人
賽銭だけであやかるつもり
かみほとけ しゅっせだいみょう てんかびと
さいせんだけで あやかるつもり
天下人一夜限りの宴にて
明日は落武者夢の随に
てんかびと ひとよかぎりの うたげにて
あすはおちむしゃ ゆめのまにまに
見出しの画像は地元在住の松居清恵さんが趣味で描いたスケッチ画の作品「木杭に波打つびわ湖畔に佇む秀吉の居城・長浜城」の絵葉書。9月30日に歌を詠んで10月1日に投函。10月4日に手元に届いた。
長浜城は、1573年、羽柴秀吉が城持ち大名として最初に築城した城である。城下町は浅井氏の小谷城下からそのまま移り、秀吉はここで城下経営の経験を積むことになる。その後、1581年、秀吉が信長の中国遠征に従い留守となることから、信長は堀秀政を城主に任ずる。翌年、本能寺の変で、城は明智方の阿閉貞征に占領されるが、明智方が敗戦すると秀吉支配下に復し、1585年、山内一豊が城主となる。一豊は後に、掛川城主、徳川幕府成立後は土佐藩主となる。山内氏は明治維新に際し、いわゆる薩長土肥の一員として重要な役割を果たすことになる。そんなこんなで長浜城は出世城とも呼ばれる。
秀吉は長浜城築城に際し、1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用した。それがため、秀吉は大阪城の唐門を宝厳寺に寄進するよう遺命している。こういうことは人の上に立つ者の気配りとしてけっこう大事である気がする。ただ立場に甘えて威張り腐っていると思わぬところで寝首を掻かれたり、足元を掬われたりするものだ。死後のドサクサはともかくとして、天下人としてあの世に旅立つことができたのは並大抵のことではない。神は細部に宿る、というのはこういうことにも言えるのだろう。
天下人である豊臣秀吉ゆかりの地には豊国神社が祀られることがあるが、長浜にもある。祭神になるのは本人が決めることではなく、後世の人々の判断なので、そこにはあやかりたいとの気持ちも当然にあるだろう。現代の我々は史実とされることの断片や、伝承などから古い時代のことを想像するほかないのだが、それにしてもこれまでの人々の営みというのは何とも言えないドロドロを感じる。そのドロドロを制するのは何だろうか。手を合わせて済むようなことではないことは確かだろうが、手を合わせておくことが気休めになるのも確かであろう。たぶん、我々の日常も後世の人々にはそう見えることになるのだろう。後世があれば、だが。