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たまに短歌 滋賀県長浜市7 2024年10月1日 かくれ里

誰が為に仏を守り神祀る
誰が為でなく我が為でなし

たがために ほとけをまもり かみまつる
たがためでなく わがためでなし

ここで竹生島と菅浦の位置関係を確認しておく。琵琶湖の北側の湖畔はかなり入り組んでいる。43万年前に形成された世界屈指の古代湖の一つで、地形としては丸くなってもよさそうなものだが、日本列島周辺の地殻活動はよほど活発らしい。湖底の地形も複雑だ。湖の最深部というのは、漠然と真ん中あたりだと思い込みがちだが、高島市を流れる安曇川の河口沖で、水深104mである。竹生島付近も70mほどあり、竹生島と葛籠尾崎の間の水深40-60mには湖底谷が走っている。

湖内外の古く複雑な地形、深い水深、大陸側と大洋側の境界領域、といったものが揃うと、自然現象としても珍しいことが起こりそうだ。その上、何日か前にも書いたように琵琶湖は京都、奈良、大坂といった古い日本の中心と日本海、さらにその向こうに広がる大陸とを繋ぐ交通の要衝で、その覇権を巡って大小種々様々な権力闘争が繰り広げられた舞台でもあった。そいうところに民間伝承や土地の言い伝えのような形で今に残る奇譚は少なくないだろう。

長浜市観光マップ(長浜市文化観光課 2024年4月発行)の一部

それで菅浦だが、須賀神社は鳥居も参道もきれいに手入れが行き届いている。参道の緩やかな坂道を進み石段の前に来ると手水がある。それは当たり前の風景だが、手水にかかる屋根の下の端にスチール製の下駄箱があり、その前に簀子が敷いてある。石段から先は土足禁止なのだ。下駄箱には寄進されたスリッパがびっしり並び、それに履き替えるようになっている。後から知ったのだが、本当は素足で参拝するものらしい。素足で登れば身も心も変わるのかもしれない。時代劇などでお百度を踏む人が裸足で描かれていることがあるが、今でもこういうところがあることに驚いた。そういえば、昔、インドで寺院に参詣した時も境内は素足だった。タージ・マハルも霊廟に入る時には靴を脱ぐことになっていた。

ताज महल 撮影日:1985年3月10日

菅浦は白洲正子のエッセイ集『かくれ里』にも取り上げられている。そのなかで須賀神社について次のように記されている。

菅浦には、須賀神社という社があるが、明治までは保良神社と称し、大山咋神と大山祇神が祭神であった。が、ほんとうの祭神は淳仁天皇で、社が建っている所がその御陵ということになっている。保良神社といったのも、そこが保良の宮跡だからで、また葛籠尾崎の名称も、帝の遺体を奪って、高島からつづらに入れて運んだことから名づけた、と伝えられている。
 あまりに唐突な話で、急には信用することができないが、いくばくかの真実はふくまれていたに違いない。保良の宮があった所は、一応石山の付近ということになっているが、確たる証拠があるわけではなく、信楽の他にも二、三推定地は残されており、竹生島に近く、風光明媚な湖北の地に、離宮があったとしても不思議ではない。だが、性急な憶測は止めにしよう。それより村の人々が、どんな風に伝承を奉じ、どんな形で伝えているか知った方がいい。

白洲正子「湖北 菅浦」『かくれ里』講談社文芸文庫 182-183頁

宮内庁によると淳仁天皇は神武天皇から数えて47代目の天皇で、在位期間は758-764年とされている。宮内庁によって淳仁天皇の御陵と治定されているのは兵庫県南あわじ市賀集にある淡路陵あわじのみささぎだ。しかし「淡路」を「淡海」の書き誤りとみなし、「近江」と読み、本当は淡路島ではなく近江で葬られたとする説もあるようだ。

 祖神として祀られる人々には、必ず哀れな伝説がつきまとう。淳仁帝も、その例にもれず、不幸な生涯を送った天皇である。天平勝宝8年、聖武天皇の崩御とともに、平城京には不穏な空気が流れはじめた。表向きは「咲く花の匂うが如き」都に変わりなかったが、誹謗や讒言が横行し、多くの公卿が逮捕されたり左遷されたりした。皇太子も廃され、かわって大炊王が立つ。天武天皇の孫で、時に25歳、これが後の淳仁天皇である。かねてから藤原仲麿(恵美押勝)と親交があり、翌年には孝謙女帝が譲位して、仲麿は天皇から、恵美押勝の美称を給わる。が、実権は依然として上皇の側にあり、天皇は傀儡にすぎなかった。道鏡が上皇に近づいたのもその頃のことで、次第に押勝の立場も危うくなって行く。
 新しく造った近江の保良の宮で、天皇が上皇と道鏡の間柄を、きびしく詰問されたのは有名な話である。そのことから、事態は急激に悪化した。上皇は怒って、奈良の法華寺に籠居し、天皇も近江から平城京に還御になった。押勝の乱が起こったのは、それから間もなくのことである。
 この乱については、歴史家の詳しい考証があるが、天皇は直接関係されなかったらしい。が、されてもされなくても結果は同じことだった。さしもの権勢を誇った恵美押勝が、近江の高島で潰滅すると同時に、天皇も淡路へ流され、「淡路の廃帝」と称されることになる。
(略)
 一方菅浦の言伝えでは、その淡路は、淡海のあやまりで、高島も、湖北の高島であるという。

白洲正子「湖北 菅浦」『かくれ里』講談社文芸文庫 181-182頁

菅浦には淳仁天皇の菩提寺跡というものもある。

淳仁天皇菩提寺菅浦山長福寺跡
撮影日:2024年10月1日

菅浦では「菅浦文書」が発見されている。中世以前の古文書というのは、識字能力や料紙が貴重品であったなどの事情から、現存するのは公文書と高貴な人物の私信がほとんどだ。ところが「菅浦文書」はこの地域の自治の記録なのである。現物は滋賀大学に保管されているが、長い間、開かずの箱と呼ばれる木箱に入れて地域の人々が大事に受け継いできた。

おそらく、菅浦の人々は使命感のようなものを持って、記録を残し、集落を守ってきたのだろう。それが、長い年月を経て自意識の根幹の一部を成すようになったのではあるまいか。

 菅浦は、その大浦と塩津の中間にある港で、岬の突端を葛籠尾つづらお崎という。絵図で見るとおり、竹生島は目と鼻の間で、街道からは遠くはずれる為、湖北の中でもまったく人の行かない秘境である。つい最近まで、外部の人とも付き合わない極端に排他的な部落でもあったという。
 それには理由があった。菅浦の住人は、淳仁天皇に仕えた人々の子孫と信じており、その誇りと警戒心が、他人を寄せ付けなかったのである。木地師には惟喬親王が、吉野川上村には自天王が、そしてここには淡路の廃帝が、一つの信仰として生きているのはおもしろい。おもしろいといっては失礼に当たるが、神を創造することが、日本のかくれ里のパターンであることに私は興味を持つ。

白洲正子「湖北 菅浦」『かくれ里』講談社文芸文庫 180頁

天皇を守ること、しかも亡くなった後を守ることを「使命」と意識する世界観とはいかなるものなのだろうか。「天皇」とほ何なのか。権力とは何なのか。

近時、敗戦後の占領政策でGHQは皇室をだいぶ縮小させたが、天皇制そのものには手を出さなかった。それに関連したことは以前にnoteに書いた。連合国側の占領政策研究の結論としてそういうことになったのか他に理由があったのか知らないが、その結果として今がある。その今がどうなのか、人により、立場により、思いは様々だろう。

これだけヒト、モノ、カネが自由自在に往来するようになって、その流動性の上で物事が決するようになって、果たして人は何に拠って自己を認識するのだろうか。よく「文化」とか「伝統」とか、いかにも遠い過去から連綿と紡がれてきた「独自」のものの延長線上に「自分」があって、それが子孫の世代に繋がっていくと思い込んでいる節がある。しかし事実としては変わらぬことなど何一つ無く、普遍性というのは概念あるいは幻想だ。だからこそ、人には自分を支える明快な根拠が必要なのかもしれない。たとえそれが幻想であるとしても。

ただ、「明快」であることは浅薄であることもあり、「だからなんなんだ?」とか「それがどうした?」と言われも満足に返すことができなかったりもする。本人が大したつもりでも傍目にはそうではないことだってあり、それがしばしば悲劇的かつ喜劇的な諍いにつがなることもある。尤も、自意識などというものは、そもそも単純なもので、突き詰めてみれば自己なるものは本来的に浅薄であるというだけのことかもしれないのだが。

出所:宮内庁 天皇系図

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熊本熊
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