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蛇足 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART7』

いわゆる差別についてずいぶん喧しい世の中になった。差別される側、差別された側が声高に差別の不当性を主張することが差別そのものの解消につながっているようには見えないのだが、問題の存在を広く訴えることができるということが大事なのかもしれない。現実には、騒ぎ立てたところで、表立った差別がそうではないものに変わるだけで、結果として一層悪質なものにならないとも限らない。自他の別の延長線上に差別があると思うのだが、その自他の意識が暴走することで人間同士の大規模な殺戮にまで至るのは、それほどまでに人間の自我というものが強力であるということでもあるのだろう。だからこそ、人間は地球上でこうして我が物顔で振る舞っていられるのである。

本書で取り上げられている作品の中にも差別に関連して注目されるものがいくつかある。例えば『EXODUS (1960):栄光への脱出』(本書176-177頁)はイスラエル建国を題材にしたものであり、『CROSSFIRE (1947):十字砲火』(192-193頁)、『GENTLEMAN'S AGREEMENT (1947):紳士協定』(194-195頁)もユダヤ関連だ。

「栄光への脱出」はイスラエル建国秘話といった映画で、ユダヤ人の立場に立つと勇壮な物語である。しかし彼の地に住んでいたアラブ人の身になってみると、強引な建国ということになろう。なにしろ旧約聖書の時代にまでさかのぼる紛争だから、ぼくには理解できないところがあるのだが、ユダヤ人の多いハリウッドだから、この映画が大作として作られた事情はわからなくもない。
 ポール・ニューマンは建国のリーダーの一人で、六百人の同胞と船で現地へ向かう。現代のモーゼを思わせる描き方。現地には父(リー・J・コップ)と叔父(デイヴィッド・オパトシュー)がいる。父は穏健派だが、叔父は過激派で、テロをやっている。
 叔父の言葉。
「歴史を見ろ。テロ、暴力、死は国を誕生させる助産婦なのだ」

176頁 『EXODUS (1960):栄光への脱出』

「十字砲火」は復員兵たちの溜り場で一人のユダヤ人が殺される。容疑者が浮かぶが、担当の警部(ロバート・ヤング)は別の人物に狙いをつける。何かと差別的発言をする兵隊(ロバート・ライアン)で、警部はほかの兵隊たちと計らって、彼を罠にかける。ミステリー仕立ての社会派作品。
(略)
警部の祖父はアイルランド移民で、かつていわれなく殺されたのだった。そのことを話してから警部は言う。
「憎悪には意味はない。アイルランド人というだけで憎まれる。次はユダヤ人、次はクェーカー教徒。次は縞のネクタイをしているだけで殺される」

192頁 『CROSSFIRE (1947):十字砲火』

主役のグレゴリー・ペックはルポライターである。友人が編集長をしている雑誌社から反ユダヤ主義についての取材を依頼される。彼は取材の方法として、自分はユダヤ人だと名乗ることにする。すると突然差別を受け始めるのだ。ホテルには泊まれない。子どもはいじめられる。自ら体験する中で、彼は偏見を本当に憎むようになる。
 彼の妻はすでに亡く、恋人(ドロシー・マクガイア)ができる。彼女はインテリの上流婦人。偏見は持っていない筈だ。だが彼がユダヤ人を名乗ってから関係がギクシャクする。つまり彼女は普通の人であり、事を荒だてたくないのである。「紳士協定」は彼女が使う言葉で、差別があったとしても暗黙のうちに丸く収めてしまうのが紳士的なルールだ、という意味である。それを彼に求めるので彼は怒って言う。
「善良だけでは足りない。何もしないで傍観しているのは愚劣なルールへの同調だ」

194頁 『GENTLEMAN'S AGREEMENT (1947):紳士協定』

アメリカでユダヤ人に対する差別が本当に深刻な状況であったとして、そのアメリカで反ユダヤ主義批判の作品を多額の資本を投じて制作し公開することができるだろうか? 下々の生活の場面では単純な差別的行為が横行しているとして、それが即ユダヤ人の社会における位置と一致したものと判断できるものなのだろうか? 社会の表層と深層は単純に繋がっているものなのだろうか?

差別については日本人も他人事ではないだろう。先月の元首相暗殺事件を機に或る新興宗教と与党との関係が取り沙汰されている。その新興宗教は隣国に本拠を置くものだが、日本の政権与党と深いつながりがありそうだ。公開されている情報だけを頼りにそのつながりを辿ってみると満州に行き着く。そのことは前に書いた。同じように現首相についても公開情報だけを辿って系図にまとめてみた。やはり台湾とか満州といった日本の旧植民地との関わりが示唆されるものだった。下々の方は素朴に差別的な事を叫んでいたりするのだが、権力の中枢の方はその差別の対象と何か繋がりがありそうだ。

Wikipediaより筆者作成 傍線のある名前はWikipediaに掲載あり

何年か前に仕事で香港に2週間滞在した。勤め先の香港現法がたまたま日本領事館が入居しているビルにあったので、毎日ビルの前に並ぶ従軍慰安婦像の前を通って宿泊先と勤務先との間を往復していた。慰安婦像は3体並んでいて、それぞれ違った民族衣装を纏っている。従軍慰安婦像の傍には日本を非難しているらしいポスターがたくさん貼ってあった。中国語はわからないのだが、尖閣諸島の領有権についても何やら書いてあるらしいことは中国名の「魚釣島」という文字が踊る島の写真もあったので想像がつく。

外交上の礼儀として、外国の領事館前に問題になっている領土や賠償に関わる主張を一方的に訴える事物を設置することは妥当なのだろうか? 勝手な想像だが、従軍慰安婦問題は日本側は「解決済み」としているが、相手側は市民団体の主張のみならず、国家レベルでもそれに異を唱えており、さらにその背後に当事国以外の第三国の影がある、ということではないだろうか。領事館の外のことは日本がとやかく言うわけにはいかないのだろうが、この場所にある慰安婦像の意味を読み解くと、それは単なる戦後賠償にまつわる市民運動だけの話とは思えない。

ついでながら、例の感染症のことが騒がれ始めた頃、武漢を基点にした人流を調べたら最も活発な往来の先が中国国内の都市ではなくて東京だったという話を聞いた。もう一つついでながら、中国の政権中枢にあって、日中間の懸案を巡るマスメディアの報道では強面で日本に対して厳しい発言をする或る人が、日本語が堪能で通訳なしで日本の政治家と公私にわたる交流があるのは、たぶんよく知られていることだ。世間の感情面のことや表層の現象と、実際の利害の関係はだいぶ違うものなのだろう。

世間一般向けに作り上げられたイメージとその背後にある諸々の関係性とはだいぶ違っているような気がする。市井の一個人として暮らしている分には、どちらもどうでもいいことのように感じるのだが、市民社会の一市民としては、少しは社会というものを意識しないといけないのかもしれない。と言っても、何をどうすれば良いのかわからないのだが。

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