『文選 詩篇(二)』 岩波文庫
今年最初に読んだのは岩波文庫の『文選』の第一巻。短歌や俳句を詠んだり読んだりするのに何か足しになるものでもあるのではないかと思って、漢詩を読み始めた。流石に漢詩を白文で読むことはできず、読み下しと注と解説を頼りに読むので、容易に読み進めることができない。だから手に取るのが億劫になる。一巻目を1月に読んで、二巻目を読み終えたのが9月だ。全部で六巻ある。今年中には読み終わらない。しかし、そんなものを読むのも、それはそれで不思議と愉しい。
いきなり顔延之の「秋胡の詩」というすごい詩から始まる。何がすごいかというと詩に歌われている物語だ。夫婦の話である。美しい娘と君子と誉高い美男の夫。新婚早々、夫が遠方へ出張を命じられる。時代は4−5世紀、そこその官位にあるので、移動は牛馬が引くのか人が引くのか知らないが車である。それでも、今と比べれば荒野を行くが如きの大移動だ。命懸けといっても過言ではない過酷な移動である。無事に勤めを終え帰路についた夫は、大命を果たし終えて気が緩んだのか、車窓から農作業に精を出す美しい女性を見つける。移動の隊列を止め、その女性に話しかける。話しかけるという穏やかなものではなく、いわゆるところのナンパをする。しかし、その女性は堅い。全く相手をしないのである。男は諦めてそのまま帰宅する。帰ると母親しかいない。妻の行方を尋ねると農作業に出ていて直に戻るという。戻ってきた妻は、さっきナンパをした女性だった。女性はそれが夫であることに気づいていた。この後修羅場を迎えたらしいことが示唆されて、最後はこう締める。
こんな男と夫婦になるとは恥である。こうなったら川に身を投げるほかはない。絶縁宣言だ。当時の倫理観の基礎にある儒教の考え方を反映したものらしいのだが、こういう作品が残るということは実情がその反対だったということでもある。一夫一婦というのは誰が決めたのか知らないが、社会の単位として家庭を捉えれば、そこに厳然たる秩序がなければ社会も安定しないと考えるのは当然だ。しかし、集団の特性とそれを構成する個別要素の特性は無関係である、というのは数学の集合論の常識だ。
よくいろいろなところで使われる蟻の集団の話がある。蟻の群は、よく働く2割の蟻が8割の食料を集めるとか、本当に働いているのは全体の8割だとか、よく働いている蟻とそうでもない蟻と働かない蟻の割合は2:6:2になるとかいうものだ。そして、そのよく働く蟻だけを集めて群をつくると、やはりそのような比率の群になるというのである。なぜだろう。
60年近く生きてみた実感としては、まぁどうでもいいんじゃないの、ということになるか。人は生まれることを選べない。気がつけばここにいる。それを周りからああせいこうせいと言われてもねぇ、と思うのである。
命というものが何なのか、というのは誰にもわからないことで、だからこそ宗教が必要なのだろう。わからない、というのは生きる上で大変マズイことなのだと思う。確たる真理のような秩序があって、その中に自分を位置付けることで人も、おそらく他の生物も、平穏な日常を営むことができる。その拠り所の一つが家庭という集団だと思う。知覚し認識する世界を自分なりに理解して構成する世界観の基礎となる実体験が家庭だ。だから、家庭の構成員は必ずしも生物的な繋がりがなくても良いし、実体があったという記憶が残っていれば良いので今ここにいる必要もない。
何もないところに自分一人しかいないとすれば、そもそも自己を認識できないので他者が例え妄想の中であっても必要だ。その他者との関係性の中に「自分」があり、その「自分」の集合として「世界」が生まれるのである。当然、私が認識している世界は「あなた」(=私以外)のそれとは違う。しかし、どのように違うかは互いにわからない。私はあなたではないからだ。そこで私とあなたが共に生きるためには共有する「正解」が必要になる。世の中はそういう「正解」でできている。ただ往々にして私の「正解」はあなたのそれとは一致しない。そこで諍いが生じる。そして、その不一致が私の生存の基盤となる世界観に重大な脅威となると認識されれば、あなたには消えてもらわなければならない。かくして世に争い事は絶えないのである。
この文章をパソコンの液晶画面を見ながら打っている。画面には文字が現れ、自分が考えたことが文として表示されている。この画面を物理的に分解すればただの液晶の点でしかない。一つ一つの点だけを見ても文字はわからない。人はこの点のようなものなのだと思う。
『文選』に収載された作品は1500年ほど前のものだ。そのままかどうは知らないが、それをこうして読むことができる。漢詩というと山水画の世界を詠んでいるイメージを持っている。そういう平穏な世界が詩に詠まれ、それが後代に受け継がれているということは、現実がその正反対であったということでもある。
だからこそ、山水画の世界のように、山奥の静かな土地で気の合った友人同士集まって、釣りをして遊んだり、酒を酌み交わしたり、というようなことが漢詩には描かれている。その本意は、酒を飲むということや隠遁することの記号性を読み解くと別の世界が見えてくる。1000年やそこらで人間というもののありようが変わるとも思えないが、身の回りがざわついている時にこそ、漢詩の世界はありがたいものに感じられる。
ところで、今の中国の人たちも漢詩を読んだり詠んだりするのだろうか。習近平の詠んだ詩があれば是非読んでみたいものだ。