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中西進 『新装版 万葉の歌びとたち 万葉読本 II』 角川選書

自分とは何者か、というのは意識するとしないとにかかわらず誰しもが抱えている疑問、懸念、不安の類であろう。人の全ての発想と行為はそこから発しているのだと思う。たまたま最近世間が盛り上がったスポーツの祭典があり、「日本人」がどうこうこうという話を普段以上に見聞きした印象がある。しかし、その所謂「日本人」とは何者なのだろうか。

「日本人」は「日本語」を母語とする人々だ、とするなら、「日本語」はいつ現在のようなものになったのだろうか。ほんの少し時代を遡るだけで、表記はずいぶん違うということは明らかだ。例えば、以前にアーティゾン美術館で青木繁(1882年7月13日 - 1911年3月25日)と坂本繁二郎(1882年3月2日 - 1969年7月14日)の企画展を観た時の話を書いた。その展示の中に青木と坂本の間で交わされた書簡もあった。あくまで私個人の能力の話ではあるが、明治に書かれた手紙が自分には読めないことがわかった。時間をかけて丹念に文字を解読すれば読めるだろうが、そういうのは「読める」とは言わない。わずか百数十年前の「日本語」の手紙が読めないのである。

『万葉集』が成立したのは8世紀後半で、完本では鎌倉時代後期と推定される西本願寺本万葉集が最も古いとされている。そのあたりからいくつも写本が作られ、さらに様々な識者がああでもないこうでもないと訓み下し、概ねいくつかの主流の訓みができて今日に至っている。つまり、今我々が書店で手にする『万葉集』の成立当初の本当の姿は誰も知らないのである。万葉の歌人たちがどのような言葉を使っていたのか、仮にタイムスリップして万葉の歌人と対面した時に意思の疎通を図ることができるのか、わからない。少なくとも『おじゃる丸』のようなわけにはいかない。何より、彼等の時代には今の日本語は成立していない。そもそも自前の文字がない。しかし、統一国家の体は成しており、「日本」という国の人として対外交流もある。どのような言葉でやりとりしたのだろうか。

歌はそれだけでは聴く者、読む者に伝わらない。その言葉の背景を共有できる者の間で理解や誤解が成立する。よく言われることだが、言葉の文化は歌から始まることが多い。文明初期の記録媒体が粘土板だったり、柔らかめの石板だったり、木簡であったり、今とは比べものにならないくらい貴重な紙類であったり、気軽に使えるようなものではなかったはずだ。だから、言葉は記録媒体に依存しない記憶しやすい形態で遣り取りされたのである。節が付いたり、リズムに乗せやすかったり、論理で辿りやすかったり、物語に埋め込んだり。ということは、歌はそれを詠み合う人々の間にある程度の文化的成熟が必要だ。文化的成熟とは文化的経験の蓄積でもある。人の社会として起こり得る事一通りを何度も経験した上でないと文学は生じない。

『万葉集』の歌は表記こそ漢字(万葉仮名)だが、中身は大陸の言語ではない。歌い手の中には渡来人とされる人もいるが、そういう人も訓み下せば他の歌い手と変わらぬものを詠んでいる。それもまた不思議なことだと思われるのである。

本書は中西の万葉読本シリーズ第二巻目で、書名が示す通り歌人に焦点を当てている。その中に山上憶良がいる。中西は憶良を渡来人とみている。

六六三年、白村江の戦に百済救援のために送られていた日本海軍も全滅、百済再興の夢は消える。死をまぬかれた高官たちは、多く日本に亡命して来た。白村江の敗戦とともに渡来した医者の憶仁おくにはやがて朝廷につかえて、天武天皇の侍医となり、ほかの亡命要人たち同様、琵琶湖のほとりに土地を与えられて住んだ。現在の、滋賀県水口町の山のあたりが、その地ではなかったろうかと思われる。
 憶良は、この憶仁の子らしい。六六〇年、百済にうまれ、四歳にして、故国滅亡のあらしの中を日本に渡って来た。

8頁

本書ではこの説に対立する見解や批判も紹介されており、山上憶良が渡来人であるか否かについては諸説あることが示されている。しかし、もっと時代を遡れば誰もが渡来人だ。「日本人」はいつ成立したのだろうか。大陸の言語とはだいぶ異なる日本語がどのように成立したのか。却って謎が深まるばかりだ。

謎といえば、憶良の経歴も謎が多いらしい。私に言わせれば万葉歌人などという大昔の人々の経歴など誰一人として明らかであるはずがないし、そもそも人一人の人生は謎だらけである。例えそれが己自身であっても。人はよく性格だとか人格だとかを話題にするが、誰一人として誰かのことをきちんと理解している者などいない、と思う。屁理屈はさておき、『万葉集』に収載されている憶良の歌は悉く晩年のものらしい。

憶良の父と中西が見ている憶仁が天武天皇の侍医であるとすれば、その息子はもう少しそれらしい経歴であっても不思議はないのだが、憶良は42歳まで実質的に無位無冠だという。官位があれば記録に残るが、そういうものがないらしいのだ。憶良が記録に登場するのは大宝元年(701)に発表された遣唐使に最下位の書記官として選任された時のことだという。総勢約160名、出航は702年、帰国第一陣は704年。そのとき無事に帰国できたのは総員の約三分の一だったという。残された人々が再度の帰国を試みたのがその3年後。それでも帰国できたのはわずかで、残りは養老2年(718)の次の遣使の帰国に便乗する形になったという。もちろん、出航した全員が最終的に無事に帰国できたわけではない。憶良がいつどのように帰国できたのかは確証がないらしい。ただ、少なくとも養老2年の便乗組以前には帰国していた。

憶良は和銅7年(714)に従5位下となる。時に憶良は55歳。大宝元年では無位無冠であったことを思えば、これは大出世なのだそうだ。遣唐使に選任されて少初位上となったところを基準としても十四階級特進だという。航海の危険を顧みず、毎回何百という人が遣唐使として海を渡ることになったのは、もちろんお上からの命令でもあったであろうし、先進地域である大陸の文化や文明への純粋な憧憬もあったかもしれないが、そういう人生の一発逆転期待のような事情もあったのだろう。憶良は大出世して最初の任官が伯耆守、国司だ。伯耆守を一期満了し、都へ戻って首皇子の侍講となる。時に還暦。侍講任命の背景として漢学を重視した時の権力者である長屋王がいた。この時の侍講団16人は渡来系の学者と漢学に秀でていた者で構成された。

神亀元年(724)に首皇子が天皇(聖武天皇)に即位すると憶良は侍講を解かれて筑前守となるが、任官の年は詳らかでないらしい。この筑前で、同時期に太宰帥として赴任した大伴旅人と交流することになる。太宰帥は筑前守よりかなり高位で、本来なら直接交流することなどできなかった。それを可能にしたのが歌だったという。そして、天平4年に帰京する。時に73歳。従五位下という身分は変わらないが、この年齢で新たな仕事があるわけがない。位はあるが無冠になった。

『万葉集』に収載されている憶良の歌が作られるのは、ここからなのである。その憶良の歌の特徴として中西は次のようなことを語っている。

ところで、彼の歌には土着性がまったくない。いわゆる自然詠などといえる作品は一首もない。部分的な自然描写にしても、きわめて少ない。恋愛詩を一首も残さなかったことも特異な詩人なのだが、自然を歌うこともしないふしぎさが、その上に重なっている。なぜなのだろう、最近そのことが私の頭を去らない。

153頁

憶良の親しかった友人、大伴旅人は、九州にあっては大和を、大和の奈良の都に住んでは故郷の飛鳥を恋うた。萩の落花を故郷に見たいというのが、彼の生涯最後の歌である。そうした具体的な風土を、憶良は持たないのである。

159頁

実体験ではない原体験は、四歳といえども、生涯に決定的に働く。有名な「貧窮問答」という一篇の長歌は、
 風まじり 雨降る夜の 雨雑り 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば…(5 八九二)
と歌い出される。万葉集には数多くの雪がよまれているが、こんな雪がほかにないことを十数年前に指摘したのは、長崎大学の渡部和雄教授であったが、この酷寒の描写が朝鮮のそれだといわれたのは、かつての京城大学教授、亡き高木市之助博士であった。この炯眼に驚きつつ、この拙文をお目にかけるよすがもないことを、私は悲しまざるをえない。これは憶良の原体験と想念との結合した、現風景のほかの、もう一つの幻風景だったのである。

160頁

中西は憶良の「渡来人」性を故郷の喪失と関連付けて論じているように見える。所謂「ふるさと」は誰にとっても自己の存在の拠り所になるものなのだろうか。自分は日本に日本人として生まれ育ったので、その「喪失体験」云々は感覚としてわからない。自分とは何者か、というのは意識するとしないとにかかわらず誰しもが抱えている疑問、懸念、不安の類であろう。人の全ての発想と行為はそこから発しているのだと思う。しかし、そもそも我々に確かな起源があるわけではない。人は結局のところ、自分が生まれたところの共同幻想の中で自意識を醸成するより他にどうすることもできない。我々は誰もが「渡来人」であり、どこから「渡来」したのかは誰にもわからないまま、どこへともなく流れてゆく。私にはそういうふうにしか思えないのである。

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